今朝の熊本県地元の地方紙の報道によると、残念ながら熊本県は今回の球磨川洪水であまりのショックを受けたのか、あるいは千載一遇のチャンスと建設関係者が思ったのか、川辺川ダムを建設する方向へ進みだしてしまったようだ。「治水」が出来るなどという人間の思い上がった自然への甘い考えを叩きのめす今回の球磨川豪雨災害なのに、地元地方紙の論調は既に建設しないという選択肢は無いやろう・・という感じで報道を始めている。
県南の災害に対して、建設業者は県北・熊本市周辺に集中していて今回の災害を受けていないから人吉球磨の被害は他人事だろう。同時に工事が始まれば人吉市内の宿泊施設は数年間満杯になるだろうから、コロナ・水害で落ち込んだ経済復興に地元では歓迎の声が出るに決まっている。
こうして地元の論理で事が動き出してしまうのだろう。人吉球磨の「自然」を守ろうという気概のある動きが生まれるか否か?残念ながら望みは非常に薄い。熊本県人の行動が全国から注視される時がしばらく続くだろう。
特に「川辺川ダムを造るに賛成か反対か?」の二者択一で迫り、ダム賛成派Vsダム反対派に色分けして他の考え方や意見を抹殺する公平性を欠く地元新聞メディアや有力者(声のデカい者たち)に対抗する心ある熊本県民がどれだけいるか、今や全国民が熊本県人を注視している。
ため息の出るような地元の動きはさておいて、話を肥薩線に戻そう。
昨日の投稿に随分アクセスを頂いた。それだけ肥薩線の復旧に注目が集まっているのだろうと感じた。1975年以前の国鉄時代であれば「親方日の丸」で国の方策として交通インフラは「施して当たり前」だったろう。肥薩線があったればこそ、その沿線の駅周辺に集落が出来たのだろうし、移り住んでくる人たちが居たのだろう。
しかし、国鉄が民営化された昭和50年以降、車の普及に反比例するように鉄路の世界は大きく変わり全国各地で鉄道の廃線化が進んだ。モータリゼーションの影響であっという間にアメリカ並みの車文化に成った日本。
全国の主だった都市は旧中心部の繁華街が郊外バイパス沿いの駐車場付き大型店舗に車で動く客を奪われ、閑古鳥が鳴いてシャッター通りがどんどん増えていった。
両サイドに鉄道の駅、もしくはバス停が無いアーケードは現在ほとんどシャッター・アーケードに成ってしまっている。八代市の本町通り(1丁目~3丁目)が良い例だ。熊本市の下通・上通は通町筋・新市街の両サイドに市電の停留所があるからまだ活気づいている。
このように全国の地方においては車社会がどんどん進む中、「一家に一台」と夢のようだった話が、1975年(昭和50年)を過ぎてあっという間に「一人に一台」の時代になってしまい、肥薩線などもうほとんど見向きもされなくなったのがここ20年前くらいからだろうか?
こういった状況をネットで集められる限りの統計データを元に、如何に肥薩線がJR九州のお荷物路線に成ってしまっているかを認識してみようと思う。まずは如何に車社会が進んだかのデータを調べてみた。熊本県も全国の流れに準じていると言って良い。