高校に入ってまずはサッカー部に入ろうと思っていた。小倉の附属小学校でボールを思いっきりけった感触が忘れられず、奥沢中学には無かった「サッカー部」という響きに期待していたのかもしれない。
勿論当時はプロ野球が全盛の時代。入学した1964年のセ・リーグは阪神タイガースが優勝したが、翌年1965年から怒涛の9連覇を成し遂げる川上監督率いる読売ジャイアンツの王・長嶋の話題でテレビや新聞のスポーツ欄は満載だった。ちなみに王貞治選手自身の年間最多ホームラン記録55本はこの1964年に達成されたから、巨人全盛の頃だったのだろう。私の4歳違いの弟、憲彦のクラスメートに川上哲治監督の甥っ子が居たので、もちろん私も巨人ファンだった。
一方、サッカーはまだ日本国内では主要スポーツとしての市民権を得ておらず、もちろんJリーグなど有る訳も無いしスター選手も居なければ、ワールドカップ、ブンデスリーガ、セリエAなどという言葉すらマスコミには登場していなかった。しかし全員が90分間激しく動き回るサッカーは、味方の攻撃中にバッター以外ベンチで座っているような野球よりは落ち着きのない自分に向いていると思ったのだろう。
しかし、残念ながら校庭の狭い都心の広尾高校にはサッカー部が無かった!つくづく思うが、ヤマセミの撮影でいつも滞在する人吉市の県立人吉高校の敷地などたぶん広尾高校の3倍はあるだろう。学校の敷地の中を車の通れる道路が走っているなど信じられない広さだ。伝統と言い、施設の立派さと言い、これ程同じ高校で差が在って良いのかと思う程だ。これでは東京の公立高校からはスポーツの優秀なアスリートは今後もまず生まれまい。
入学1年前の都立広尾高校(下の部分のみ、上は渋谷区立広尾中学校)
余談はさておき、そう云う事で、校庭の狭さを見てしまったら自分で新たにサッカー部を創る気力もなく、バレーボール部の誘いに乗って人生初めての運動系クラブに入部した。入って驚いたのだが、体育館でやるものだとばかり思っていたバレーボールのクラブ活動・練習を広尾高校では校庭でやっていた。当時金メダル候補、打倒ソ連でマスコミをにぎわしていたニチボウ貝塚の女子バレー部のテレビ・ドキュメントを見ても必ず体育館でやっていた。
ところが、我が母校では体育館が他のクラブで一杯だったからか、入部して殆どの練習は風が吹くと土埃で相手側のコートが見えなくなるような校庭の土の上で練習が行われた。あの大松監督の発明で有名になった回転レシーブもこの校庭の土の上でやる訳だから、ユニフォームの繊維の間には関東ローム層の赤土が毎日目一杯詰まってしまった。
しかし練習中のしごきだの辛い思いだのは、ここでは触れない。大体その類は書いても碌な内容にならない。体育系クラブは何処でもどんな種目でも皆似たようなものだし、つらい練習は有って当たり前だと思う。ただ、毎日暗くなるまで練習してバテて校庭に倒れ、寝ながら校門の方を見ると制服を着て鞄を下げて男女仲良く帰って行くクラスメートの姿が土埃の向こうに90度曲がった景色で見えたのを覚えている。
広尾高校バレー部同期卒業アルバムから。体育館ではなく校庭の土コートだった。
私立のスポーツ強化校の様に、別に外部から優秀な選手を入れた訳でもなく、バレーボール部自体も決して強くは無かった。都の春秋トーナメント戦でも、午後の試合まで残るような事はめったになく、たいがい午前中に負けてしまい皆で黙ってラーメンかチャーハンを食べて帰る日が多かった。こういうスポーツ系のクラブは圧倒的に私立校が強かった。だから最近サッカーその他スポーツ部門で市立船橋などが強いのは奇跡的だと思う。
一番左のポスターだけは家に在ったのだがいつのまにか無くなってしまった。
クラブ活動も3年間一応やりはしたが、やはり背の高い者が有利な種目だけに、直ぐに自分の限界を悟ってしまい、さほどのめり込んで夢中にはならなかった。ただ3年間バレーボールで鍛えた事が2つの点でその先の自分のスポーツ歴に大きな影響を与えている。その一つはジャンプ力、高校3年間の修練で垂直ジャンプで90cm以上跳べるようになっていた。これは中学校時代走り高跳びで学年大会2番になった素質がさらに伸びたのだと思う。
この後70年安保騒動のさなか、東京教育大学で唯一入試を実施した代々木の体育学部を受験して合格(結局行かなかった)した際の実技・基礎体力のテストで効果を発揮した。垂直跳び90cmはオリンピック選手クラスだそうだ。教育大は入学後美術専攻科への転部が不可能と判り、再度受験して進学した横浜国立大学教育学部の第2候補体育科の入試実技の際も試験官から褒められた。(実際は第1希望の美術専攻科に入学)
もう一つは、大学で念願かなってサッカー部に入部した後、2年生からレギュラーになって対外試合・公式戦での在学中の通算ゴール数が足でのゴール数よりヘディングでの得点が上回っている事だ。つまりはバレーボールのアタックのジャンプタイミングがヘディングシュートのジャンプタイミングと全く同じだったのだ。要は飛んでくるボールを手で叩くか頭で叩くかの違いで非常にうまく行ったと云う事。そういえば高校時代コーチが居ない時に手ではなく頭と足でバレーボールをゲーム的に行った事が有ったのも思いだした。
どちらかというと目を吊り上げての運動部では無かったものの一度だけ、もの凄い誰も経験した事がないだろうという体験をする事が出来た。何とオリンピック直前に、あの大松監督が率いる「東洋の魔女=女子バレーボール日本代表チーム」が我が都立広尾高校の体育館に練習に来たのだ。日付は定かでは無いがオリンピック本番数週間前の日曜日だったろうか。都心のオリンピック競技場・選手村に近い体育館で手ごろな所が他に無かったのだろう。当然我がバレーボール部は有志で玉拾いで参加した。
大松式特訓はボール拾いしながら見ているだけで身が引き締まった。
とにかく東洋の魔女たちはデカかった。補欠の選手だろうか、自分の前に立った時顔の前にお尻が来るような感じだった。驚いたのはそれだけでは無い。彼女たちの昼御飯に圧倒された。近所の中華料理屋から店屋物を取り寄せるのだが、一人でチャーハン大盛り+ラーメン+餃子2人前ペロリなのだ。誰だか名誉の為に個人名は控えるが皆も良く知っている中心選手だった。後片付けを手伝ったが米粒一つ、スプーン1杯のスープも残って無かった。その他、正選手ではなかったらしいが、滅茶苦茶美人で可愛いい選手が一人だけいて我々の間で評判になった。でも勇気を出して玉拾いの振りをして傍に行ったのだけれど、並んだ時こちらの頭が彼女の肩までしかなかったのでその場で諦めた。後に皆で話し合った「彼女は別の道に進んだ方が絶対幸せだよなー。」
大松博文監督は決して鬼ではなかったが笑顔を見たことは一度も無い。
あの日のボール拾いが少しでもこの金メダルに関与していたら嬉しい。
2日ほど玉拾いを手伝って最後に整列した時に、大松監督とキャプテンの河西昌枝選手が我々にお礼と挨拶をされた。その後大松監督、虫の居所が良かったのか、先生か誰かがお願いしたのか「一つだけ特訓をしてあげよう」と言ってくれた。もの凄い世界一の練習を観た後で「特訓?」思わず腰が引けたが、大松監督「確実に次の大会で効果が出るはず」と言うので全員で前に出た。そうしたら「今から球を顔のすぐ横目掛けて投げるから、レシーブなどしなくて良いからボールを避けたりせず、絶対に目をつぶらないように!」と言われた。一人一人前に出ると其処に向かってテレビで観たとおり審判用の脚立の上からボールをもの凄い勢いで投げつけてくる。耳の横を通り抜けるそのボールの空気圧と音は今でも覚えている。もちろん最初は当然眼をつぶってしまう。1人10球程度練習を付けてもらったが終りの頃は眼をつぶらずにボールを目で追えるようになっていた。こうして奇跡の大松特訓を受けた数少ない一般人になった訳だ。
この2日間の経験は同じクラブに所属した者で誰が覚えているか判らないが貴重な経験だった。その数か月後のトーナメント戦でこの経験が役立つはずだったのだが、また午前中で負けて帰ってきてしまった。残念ながら世界の大松監督のせっかくの好意は生かされないまま終わってしまった。