北九州市の小倉北区、筆者が住んでいた昭和30年から36年までの小学生時代はまだ小倉市で、北九州五市の文化・政治、商業の中心的存在だった。
八幡製鉄所全盛時代は、京浜、中京、阪神の3か所に並んで北九州工業地帯も日本の4大工業地帯と言われて、太平洋ベルト地帯を形成していたが、現在は八幡製鉄が無くなり日本の工業地帯から北九州ははずれるように成りつつある。
人口も福岡市に抜かれ県内第2位の都市になっている。しかし、魚町銀天街に続く旦過市場は今でも北九州の台所として、数多くの消費者たちで毎日賑わっている。
その旦過橋市場、当時は良い食材探しが趣味の父親に連れられて、週に1~2度は夕方買い物でぶらついていた。特に小倉・北九州は経度の関係上東京より40分ほど日の入りが遅いので、夏場6月の今頃は午後8時でもまだ充分明るかった。
その頃は香春口に近い中島本町の十條製紙社宅から銀天街まで足を延ばすより、旦過市場を抜けて魚町銀天街の南端看板が見える広い道路の所で折り返すのが常だった。1973年以降、社会人になって仕事上の出張で小倉を訪れる都度、急激な変化で街が変わっていくのを肌で感じた。
特に2002年百貨店玉屋小倉店が廃業し、紫川沿いのバラックが消滅し、リバーウォークが出来てからの小倉は急速な変化を遂げた。砂津の交差点に在った朝日新聞西部本社社屋がリバーウォークに移転し消滅、チャチャタウンなるものが出現した頃からそのスピードは相当なものがある。
この小倉へは1980年代も、’90年代もさして訪問していないが、21世紀になって熊本県や長崎県、福岡市の仕事が増えた頃から年に2~3回は小倉に1泊程度するようになった。
ちょうど百貨店玉屋が終焉する2002年頃からは福岡学芸(現教育)大学附属小倉小学校のクラスメートのクラス会などに参加するようになり、40年振りの再会を経て新たなコミュニケーションが始まったりもした。
更に2010年頃から熊本県人吉市へヤマセミの生態研究で足しげく通うようになり、年に数度、多い年は10回ほど訪れるたびに小倉へも寄ってきた。
そんな流れの中で、イメージも匂いも変わらなかったのが旦過市場の佇まいだった。しかしここ数年相次ぐ火事でエリアの半分が消失してしまった。
これが旦過市場エリアの再開発を狙う動きの意図的なしかけなのか、古いが故の単純な不注意電気系統的・物理的原因なのか判らないが、昭和時代の映画のポスターのような一帯の佇まいが失われて行くのが非常に残念だ。
https://www.nhk.or.jp/kitakyushu/lreport/article/000/58/
このネット記事を読む限り北九州の自治体・消防の仕事のいい加減さ、この一帯が燃える事に関して「しょうがない」といった言い訳ばかりのメディア対応を考えると、情けない限りだ。しかも関係者が誰も処分されないのは腑に落ちない。
一方で、同じような規模と歴史を持つ黄金市場で火事などが出ない事を考えると、非常に残念至極。
小倉に在住の友人から送ってくれた旦過市場応援Tシャツで、先の大火が二度もあった2022年、応援したりもしたが、二度も出火してしまい、情けなくて呆れる限りだった。
もともと昔から決して治安のよいエリアではなかったが、筆者が再び訪れるようになってからは、さして大事件も無かったようで、お土産にしこたま松茸を買い込んで新幹線で東京へ持って帰ったことを記憶している。一日も早い完全復興を願うばかりだ。
この8月に熊本の八代を訪れる際は、是非1泊で小倉を訪れてみようと思っている。