2018年9月9日日曜日

団塊世代が幼馴染の親友を亡くすと日常が変わる。 When the baby boom generation loses a long time best friend from a childhood , everyday life changes.

 団塊世代であれば誰もが必ず直面する幼馴染の親友の死。人間には誰しも天寿というものがあり、全う出来る人はそう多くない。
 病や不慮の事故、流行り病や事故に巻き込まれて・・・という本人が如何に健康に気を付け、周りの脅威に備えていても「運命」には逆らえない。だからこそ宗教なるものが生まれ、迷える人間はすがるのだろう。

 今日のこのブログは、超プライベートな話なので、余程お暇でない方にはつまらない話だと思う、ご容赦願いたい。

 3年前に脳腫瘍を除去する施術をした際、肺の腺癌が発見され、その後話題になったオブジーボを含め幾種もの抗がん剤闘病も敵わず70歳と10日間で逝ってしまった小学校時代の幼馴染(門司の名歯科医師)が居る。
 今日のブログはそいつとの話。

 その親友とは小学校時代は親友というレベルの付き合いではなく、3年生に成った際に編入試験に合格し一緒に編入した転校生同士だった。
 
 転校生は、新入生1年から一緒のメンバー達からとかく差別されているという事を身に染みて育ってはいた。これは筆者が3回も転校し4ヵ所の小学校に通った経験値からのモノだ。

 しかし60歳還暦を過ぎて東京で行ったその小倉の小学校のクラス会で、その場の空気を読めないお坊ちゃん育ちのクラスメートが「転校生なんかにこんなに良いクラス会をカッコ良く開催されちゃって・・・。」との発言を受けて、相当怒り狂っていたのを覚えている。筆者とその歯科医で事前の段取り準備などをしたのだった。

 英語の堪能なその幼馴染の歯医者は、二次会でその元パイロットが歌うビートルズを聴いて「あんな下手くそな英語でも国際線って飛ぶんだ・・。」と言っていたが、余程悔しかったのだろう。

 同じ現場にいた筆者は、幹事の責務で次のアクションの準備で忙しく、たまたまこの発言を聴いていなかった。しかし、その幼馴染が余りに怒って悔しがるものだから、筆者もそれ以降のクラス会開催の裏方一切から手を引くことにした。残念だが余程の事が無い限り、もう開かれないのではないかと思っている。

 福岡学芸大学の附属小倉小学校(当時は北九州五市の一つ小倉市に存在した)というのが正確な小学校の名前なのだが、今は小倉市が北九州市に、福岡学芸大が福岡教育大に名義変更になっている。この附属小学校の生徒には医者や上級公務員、大会社の幹部の様に裕福な家庭の子弟などが多く、筆者のような普通のサラリーマン家庭の子供はあまり居なかった。
 中央腕組みの白いセーターが筆者、大学生の教育実習生の真下のたすき掛けが親友歯医者。後ろは小倉の街並み、足立山の頂上から。

 3年生の時に筆者もその幼馴染も一緒に転校生として3年2組に入ったのだ。しかし筆者は6年生の時、親父の仕事の関係で熊本県の八代に転校し4年間一緒に過ごしたクラスメートとも別れ、当の幼馴染ともそのまま別れ別れに成り2003年時点で音信不通のまま43年間の月日が経っていた。

 2006年世界女性スポーツ会議くまもとが開催され、裏方としての広告代理店プロデュース業務で事前に幾度も東京ー熊本間を往復していた。
 その準備段階2003年に北九州市小倉北区でミーティングが在った際、懐かしの小学校へ行ってみて、資料室から幾冊もあった卒業生名簿を黙って一冊チョイと頂いた。
 これを頼りに当時のクラスメートの実家に電話して当人の現住所を訊き出し、43年振りの交流が再開したのだった。其の経緯・詳細はまた別の機会に譲るとして、翌2004年から当時のクラスメートが一時的に頻繁に集合するようになったのだ。

 中でもその最初の時、集合時間よりも30分も早く会場へ来て、駐車した車のドアを勢いよく開けて出てきた、着物姿の若旦那風の(既に55歳ではあったが)男がこの幼馴染の歯医者だった。
 シルバーメタリックの大型ベンツから着流しで飛び出てくる男って東京でも滅多にお目に掛かれない!

 要は目立ちたがり屋なのだろう。筆者も多分にそういう所が在るのでたちまち再会を喜びながら意気投合したのだった。其れからの15年が「親友」としての団塊世代男子の付き合いだった。

 準ミスワールド日本代表に輝いた娘さんが、東京で生活しているせいもあって、娘思いの父親は結構頻繁に上京し、青山のブルーノートへよく一緒した。贔屓のロシア系カナダ人の女流ジャズ・ボーカリストがいて4度は聴きに行った。
 こちらも高校時代の仲の良いジャズファンを誘って、幼馴染の娘さん共々青山の夜を楽しんだものだ。開業医だから土曜の午後東京へ来て日曜日の最終便で戻るようなとんぼ返りだったが、好きな美術展にも幾度か一緒した。
ソフィー・ミルマンの大のファンだった。


着物が好きであると同時に絵画など美術品収集が趣味で、自分の歯科医院の室内に所狭しと美術品を所蔵していたのをよく覚えている。
着流しで福岡三越の1F化粧品売り場をすたすたと歩ける御仁だった。

お互いモノ造りが好きで、彼の場合は紅玉リンゴで作った手造りジャム、白桃、スイカなどを贈って来るし、筆者は天日干しの干し柿、天然鮎の開き、人吉のキクラゲ、ニンニク、干し筍を贈った。相手の好物を熟知しての物々交換に近い。
届いたジャムをさっそくSNSで・・・。

 年に逢うのは3~4回、東京とこちらが熊本・人吉へヤマセミ観察に向かう際か帰る際に小倉へ立ち寄って一泊し飯を食う程度だが情報交換、昔話には充分な時間が取れていた。小倉で逢う際の半分は同じ小学校時代の気の合うクラスメートと一緒に食事をしたりした。小さい時からハンサムで女の子に人気のあった彼が美味しいお店で食べる時には、何故かグルメな女性陣が集まるのだ。この女性たちのお陰で北九州で美味しいお店はほぼ征服したような気がしている。



 クルマはベンツ、フェラーリ、ポルシェを乗り継ぐ大のカーマニアだったが、ウインドサーフィンで海へ行く為の移動手段だったり、野鳥撮影の機材運搬用だったりでトラックや四駆ばかり乗り継ぐ筆者とはまるで価値観が違った。


それが、肺の腺癌を発病してほぼ3年、強い意志を持ち先への希望を捨てずに闘病しながらも、ある程度の覚悟はしていたのだろう。落ち込む事もなくひょうひょうとメールのやり取りをしていた。
 昨年今年と東京から自分の車で人吉へ行く際それぞれ小倉に行き帰り2泊づつして見舞ったが、とうとう最後の時は病院のベッドでの面会に成ってしまった。

 15年間の色々な時々の撮影画像を手作りの写真集フォトアルバムにしたものの、ついに生きている間には見せられずじまいだった。この9月2日に見舞うと8月21日(彼の誕生日)に電話して少し長く話をして航空券を買い、行く準備をしていたら8月31日、つまり見舞う予定の40時間前に逝ってしまった。

 見舞いの日程がそのまま葬儀の日程に成ってしまうという皮肉ではあったが、時間とお金を無駄にはさせないという彼一流の最期の心遣いではないかと勝手に解釈している。これで、もう小倉へ行く理由もほとんどなくなってしまった、下手をすると二度と行かないかもしれない。

 この先、この単なる幼馴染の親友の死がどういう形でこの身に影響して来るものなのか、暫くしてまたレポートしようと思う。