2016年6月11日土曜日

団塊世代はコメンテーターや評論家が嫌いらしい。A Baby boomer generation seems to dislike critics and commentators.

  最近、高校や大学の同期生、同級生などと話すことが多い。このブログで連載した「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」を見てくれている方も多く、ほとんどが同感だと賛成してくれているようで、とても安心した。
 このブログに影響を受けたと称して、自分なりに「筆者と同じ時期にもっと別の事件や経験をした」とばかり詳細を情報発信する仲間も増えて、この先もっと面白くなりそうだ。

 そんな中、今日は先日の団塊世代の会話の中から「評論家」や「解説者・コメンテーター」に対する嫌悪感の大合唱が在ったので、これを少し分析してみたい。
 団塊世代ど真ん中の筆者は、厳しかった父親の影響も在るが、どのようなジャンルにおいてもその道をプロもしくはプロ並みに極めた人間でなければ、そのジャンルの評論や解説など行うべきでないと小さい時から教わったし、自分でもそう思ってきた。

 つまり、野球選手が自分では出来もしないジャンルの違うサッカーの解説をしたり、大相撲の元力士がプロ野球の試合や選手のプレイを評論したり出来ないのと同じで、映画を作った事も無い、あるいは俳優でもなかった人間が映画の評論をしたり、楽器も弾けない、楽譜も読めないおばちゃんが、演奏会場から出てくるなり偉そうに「今日の演奏者イマイチだったわねぇ」等と言うのはとんでもない事だと思うのだ。
 これは全てのジャンルに共通する事だと思う。例えば今メディアでバッシングを受けている、国際政治学者としてテレビに出ていた舛添要一東京都知事が実際自分でろくに実務政治をできないのも、一番判りやすい身近な例ではないだろうか。
都議会の舛添要一東京都知事、北九州出身の団塊同期だ。

 もっとも彼の場合は団塊世代特有の頑固さと、人並み外れた東大出のプライドと上昇願望気質で、決して並みの神経保持者ではないのだが、気が付けば偉そうなその態度に周りから味方が一人も居なくなってしまった、というのが実情ではないだろうか。一種の裸の王様って所だろう。

 話を戻すと、同期の皆の話の中で一番多く出てきたのが、「義務を果たさず権利だけ主張する人種」が最近の日本に異常に増殖しているというのが在った。
 これを評論家に当てはめると、自分ではその道を極めていないのに、あるいは体験すらしていないのに、外側から見るだけ、観戦者として試合に接するだけ。
 こういった実務経験・体験も無いのに、多少そのジャンルに詳しいだけで「評論家」としてメディアに登場して飯を食えてしまう、日本のマスコミ界のいい加減さと不思議さを憂いていた。

 この数年を振り返ってみれば思い当たる節は沢山あった。例えば元テニスプレーヤーの松岡修造君。あの声の大きさと芝居がかった、オーバーアクションの元気姿勢!
 決して嫌いではないが、専門外のフィギュア・スケートの選手へのインタビューや、水泳ニッポンの「頑張れ頑張れ!」だけの実況解説など、何処をひねってもテレビの音声が大きなチャンネルにはすべて松岡修造が出ているんじゃないだろうかと思うほどだ。

 しかし、テニスの国際試合のコメンテーターやインタビューアーに舞の海が出て来たり、野球の張本が出て来たら彼、松岡修造は一体何というだろう?きっと、「ちょっと、ちょっと待ってくださいよ!」と言うに違いない。
 フィギュアスケートの浅田真央の評論・解説に荒川静香やカタリナ・ビットが出た際の的確な指摘と評論を聴いてしまったら、もう松岡修造の顔が見えた途端音声を消したほどだ。
松岡修造君 Googleフリー画像

 元陸上の為末選手がサッカーのワールドカップのコメンテーターに出てみたり、50m全力疾走も出来ないセルジオ越後が、偉そうに日本代表のサッカーにダメ出しをする画面はもう二度と観たくない。
 テレビのスポーツ番組担当者は余程こういう点に関しての良識や常識を持っていないのだと察する。
 我が国のマスコミ界の人種の一般常識レベルの無さは、日本のマスコミの世界ランクがあまりに低い事でも納得せざるを得ない。NHK以外の民放はテレビの裏でスポンサーの御威光にビビりながら内容はどこかに置き忘れ、視聴率を少しでも獲れる人気者コメンテーターや解説・評論者として据えてしまうのだろう。団塊世代の皆はこの点を一番憂いているような気がする。この傾向に関しては裏でチヤチヤを入れる大手広告代理店も同罪だろう。

 アイドル、それも個人ではなくグループが応援するバレーボールの国際大会って一体何なんだ?観客の若い女性たちはバレーボールを応援しているのかアイドルグループの一挙手一投足に歓声を上げているのか?世界中どの国を観てもこんなスポーツだかバラエティショウだか判らない国はないと思う。そう思っていたら今日こんな記事が出ていた。同じ事を考える人は少なくないようだ。
 http://news.livedoor.com/article/detail/11619944/

 これらの評論の可笑しさと酷さの典型がSNSでの「勝手な評論、勝手なクレーム、勝手な個人攻撃」だろう。己の身分を明かさず、攻撃目標を叩く、炎上させる。ネット社会とSNS社会がこれを野放しにする。

 だから、筆者は絶対にスマホを使わない。ブログもコメントは投稿者が自分の氏素性を明らかにしないと受け付けないし、受け付けても返事もするとは限らない。大体、見知らぬ相手とバーチャルの世界で繋がって一体何のメリットが在るのだ?皆さん余程リアルの友達が居ないと見える。

 最近騒いでいるVRつまりバーチャル・リアリズムなど、毎朝床の中で幼い頃から視る「夢」だけで充分だ。子供の頃はバーチャルだけではなく「寝小便」というリアルすら付いて来ていたのだもの、余程完成度が高い。