2015年9月12日土曜日

「団塊世代のウインドサーフィン狂い外伝 #6.」 1979年銀座の広告代理店『中央宣興』へ転職 その2。

 陸の孤島・東京流通センターから救出され、銀座一丁目の総合広告代理店に転職できたラッキーを噛み締めるように、毎日勤務後日本の中心、華やかな銀座を探検するのが暫くの日課と成った。倉庫とトラックと航空機の着陸音の運河沿いから、世界の銀座のど真ん中に移った環境の変化に自分の運命の不思議を感じない訳にはいかなかった。ここでしばらく当時の自分の脳に戻って、少しその頃を振り返ってみようと思う。

 当時1979年の銀座界隈はまだまだ今のそれとは違って、朝日新聞社の入っている丸い日劇はまだ銀座マリオンに建て替わる前で、堂々と建っていた。

最後の頃の日劇、まだ新幹線は0系が走っている。 Google画像

銀座プランタン等という女性を意識した新しいデパートもまだ出来てはいなかった。今、連日混雑しているビックカメラもまだ有楽町そごう百貨店で営業していて、その低い天井が非常に印象的だった。勿論その入口のネオンの佇まいはフランク永井の「有楽町で逢いましょう」の唄のままだった。
昭和32年=1957年5月にオープンした有楽町そごう→2000年まで営業。 Google画像

有楽町そごうの開店1957年にあわせてその年の11月大ヒットした。まだ落とすと割れるSP盤78回転だったフランク永井の「有楽町で逢いましょう」  Google画像

 この有楽町そごうの最上階に位置する読売ホールでは、色々なコンサートをその狭い会場で聴いた。一番印象深いのは、当時ピークを迎えつつあったビリー・ジョエルやトム・ぺティ&ハートブレーカーズだった。彼らは大のビートルズファンで、アンコール曲に必ず何かビートルズの曲を演奏するので毎回大いに楽しんだ。

 この頃銀座で必ず覗いた場所といえば、日比谷通りとすずらん通りの角にあった洋書のイエナ・近藤書店だ。洋雑誌ライフ誌の最新号、ニューヨーカーやビルボード、キャッシュボックスの最新号も時々手に入れることが出来たので買い求めた。そのほか当時大ヒットしたプレッピー・ハンドブックやネコ嫌いのために、この頃売り出されて海外で大ヒットした「The Official I Hate Cats Book」などはまだ持っている。数寄屋橋交差点の角に建つソニービルの地下にあった中古レコードのHUNTERと、このイエナは当時の自分に一番近い日常の『今、其処にある外国』だった。
この頃は、なんとかオフィシャルBOOKというのが流行った。 Googleより

 同時に自宅に戻るとラジオは米軍放送のFEN(Far East Network)を寝るまでつけっぱなしにしていた。だからこの頃の音楽は洋楽しか耳に入って来ていない。中学校の時からこのFENを付けっ放しにする癖は変っていない。しかし未だに英語はペラペラになった訳ではないので、『只聴くだけである日英語が喋れる・・・』と言う英語教材は真っ赤なウソだと思う。
 実際朝起きても毎日この放送が流れているので、1980年12月8日自分の誕生日の朝、この米軍放送から「A Famous Rock group The Beatles member John Lennon died.」が流れてきた時には、久しぶりに体が凍り付いてしまった。その日は生まれて初めて病気以外の理由で会社を休んだ。
1960年代のFENのカード Googleフリー画像より

 ちょうど1980年頃はカセットテープが全盛になり始めていた。理由はソニーのウォークマンだ。勿論ラジオ・チューナーが付いたラジオ・ウォークマンが出てから購入し、その後ウインドサーフィンを始めて頃から黄色い防水ウォークマンを購入した。
初期のウォークマン、テープ再生機能のみ Google画像より

 しかし何かの折に、このソニーの防水ウォークマンのイヤホンジャックだか、ゴム製の防水の蓋が劣化して取れてしまったので、交換もしくは修理をしてもらおうと西銀座に在ったソニーのサービスセンターに持ち込んだ。そうしたら、そういうゴム等の修理交換はしないとつれない反応だった。 あまりの客対応に頭にきて、そのウォークマンをお客で一杯のサービスセンターの床に叩きつけて返ってきた事があった。その後ソニーという企業の客サービスが傲慢だと新聞に記事が載って叩かれたのを覚えている。それ以降ソニーの製品はテレビだろうがパソコンだろうが未だに一切買わない。

 一方この頃はまだ写真撮影には興味を持っておらず、仕事では年中記録写真を撮影していたが「作品制作」と呼ぶような撮影は一切行っていなかった。しかし、1980年にウインドサーフィンの仕事が自分に回ってきてからは、カメラを常に手持ちのバッグ、あるいはショルダーバッグに入れて歩く事になった。ちょうどこの頃バブルの始まりの時期でハンティング・ワールドのショルダーーバッグなどが異様に流行り、何を着ていてもハンティング・ワールドのショルダーさえ下げていれば「カッコいい!今風!」と呼ばれたらしい。

 その頃は青山のVAN卒業生というプライドもまだ在ったので、石津社長の教えどおり「他人と同じモノを持つな、他人と同じ事をするな!」を守り、同じハンティング・ワールドでもそんじょそこいらでは手に入らない、1975年にVANの出張で行ったニューヨークで買い求めたショルダーを好んで使った。まだ日本にハンティングワールドの直営店・出先は無く、縫い目がほどけても壊れても職人さんのいるカバン屋さんで修理するしかなかった。
当時流行ったソフトな外皮ではなく、ニューヨークの本店で購入したハードなルイ・ヴィトンと同じ外皮をライセンス使用したタイプを長い事使用した。今でも使う時がある。

ハンティングワールドではこのほか夏用の厚手キャンパスで出来たオリエント・エクスプレスというバージョンのバッグもある。これも好んで使用した。未使用のものをまだ持っている。

すぐに流行りに乗ってラルフローレンでもショルダーを出した。これも容量が大きくお気に入り。

 中央宣興にはこういった流行を敏感に取り入れる社員が割りに多く居て、ちょうど30歳前後の話の合う仲間で昼休みの会話グループが出来ていた。自分が居たマーケティング局には残念ながら完全サラリーマンのような社員ばかりで、その手のタイプが居なかったので、SP担当グループの数人と、営業の国際局のメンバー、それにちらほら営業ナンバー局の鋭い感性を持ったメンバーが昼休みになると近所の喫茶店に集まっていた。
 
 たまり場になった喫茶店は夜はスナックになり、お酒を出す所だった。名前を「サンローズ」と言って、其処のママさんは世の中のあらゆる経験を踏んだ歴戦の闘士といった感じだった。ハスキーでシャガれた声で「ガハハハハ!」と豪快に笑う姿がまだ頭に浮かぶ。