2015年9月5日土曜日

「団塊世代のウインドサーフィン狂い外伝 #4.」 時は1978年、トリンプから広告代理店へ転職。

 トリンプでは広告宣伝用のポスター制作、販売用のお客様お持ち帰りBAG、ノベルティ小物等を盛んに製作した。勿論雑誌その他メディア用の広告も作成した。さすが女性相手のブランドだけに広告宣伝費はメンズ・アパレルのヴァン ヂャケットよりは多かったような気がする。
 そのクリエイティブ制作を、青山に事務所を構える新進気鋭の個人アートディレクターに依頼していたのだった。偶然にもそのアートディレクターの事務所は、ついこの間まで通っていたヴぁん ヂャケット本社ビルの青山3丁目に近く、好んで陸の孤島の東京流通センターからモノレールに乗り彼のアトリエ・作業場へ出かけたものだった。 

 当時はちょうどカタカナ・横文字の新しい職業、アートディレクター、イラストレーター、コピーライターなどの専門職業がカッコよくもてはやされ始めていた時代だった。
 巷では池袋パルコ、に引き続き渋谷パルコを含め西武百貨店が「じぶん 新発見」「不思議、大好き」等に引き続き「おいしい生活」など、何という言葉ではないのだが、圧倒的な露出量の反復効果で皆の頭に残る(言葉=コピー)が話題を呼び、糸井重里などという全共闘上がりの「時流に乗るのが上手い」コピーライターが脚光を浴び始める時代背景が在った。

 それまで広告の裏方職人だったクリエーターと言う人種が、世の中の表側に出て来始めた時代で、その後これまた本来裏方の「料理人」がいっぱしの評価を得て、メディアの表側に出てくるのと似たような現象が起き始めた時代だった。学歴偏重時代の受験戦争を勝ち抜いてきた、地道なサラリーマン、製造業の技術屋と違って、美術専門学校、美術系大学、あるいはそういった学校を出ていなくても、下手絵でも個性があればイラスト一本で名前を売れる、そういう時代が広がる創生期のような頃だった。トリンプで仕事を依頼していたアートディレクターは、そういった単に時流に乗ったタイプではない、実力一本で当時は新進気鋭の一人だった。

 しかし同じ美術系という事だからだろうか、いや、こちらが依頼主という事でだろうとは思うが、その人懐こいアートディレクターは、何かにつけ筆者を青山のオフィスに連れ出すのだった。その上オーディオやオールディズ、ロック系の洋楽に詳しいと知るや、自分が関わっている広告宣伝の作業にアイディア参加させようとするのだった。

 このアートディレクター氏、お金が余程儲かったのだろうか?結構な額の予算で、オーディオセットのアッセンブルを依頼してきた。こちらは夢のような金額なのでしり込みしたが、最終的にマランツのコントロールアップ、マッキントッシュのメインアンプ、ガラードのターンテーブル、SMEの12インチのトーンアームにシュアーの最高峰のカートリッジをアッセンブルしてあげた。確か購入は御茶ノ水のユニオン電気(今のオーディオユニオン)だったと思う。このユニオン電気はまだ学生時代に社長さんがグレースのレコードプレーヤーを只でくれた事で非常に恩義に感じていたので、恩を返せて非常に良かったと思っている。この一揃え、暫くはクリエーターの間で評判だったらしく随分感謝された。
名器・タンノイ・オートグラフはコーナーに置く大型のスピーカー Google画像より

マッキントッシュの真空管メインアンプ Google画像より

マランツの真空管プリアンプ Google画像より

英国ガラード社のターンテーブルにSMEのトーンアーム Google画像より

名機・シュアーV15タイプⅢ 特にクラシックファンが多かった。 Google画像より

 在る時、またまた広告宣伝のプレゼンを手伝わされた。坊主頭で片方の手に包帯を巻いているお兄さんが一生懸命テレビ用コマーシャルの4コマの画コンテを書いている横で、その画コンテに音楽をつけて欲しいと言うものだった。その中の一つは非常によく覚えている。黒人の老人がブルー・デニムのオーバーオールを着ていて、徐々に顔がアップになると大きな眼からポロリと涙があふれるという画コンテだった。

 ちょうどポールマッカートニーとWINGSの来日公演(中止になった)直前でBeatlesに傾倒していた頃なのですぐに曲が思いついた。それはBeatlesのアビー・ロードと呼ばれている最後に収録されたLP(発売はLet it beの方が後)に入っている「オーダーリン=Oh Darling」と言う曲の出だしの部分だった。

 これは非常にスタッフに喜ばれ、そのままプレゼンに採用されたという事だった。なんでも後で聞いたらTDKというテープのメーカーのTVコマーシャルだったそうだ。最終的に採用されたが、肝心のポール・マッカートニーが来日の際に成田空港で逮捕されたためお蔵入りになったという事で非常に残念だった。
https://www.youtube.com/watch?v=9lCqJ_-CFnk YouTubeより

 この一件以来、かのアートディレクターが「新庄ちゃんはメーカーの宣伝課長やっているより、実務のクリエーターの方がずっと向いているし伸びるよ!」いう事で是非紹介したいと言う人の所に連れて行かれたのだった。

 それは華やかな銀座通りの一角になる細長いビルで「中央宣興」と言う名の広告代理店だった。しかし、実際其処の要人に引き逢わされたのは青山通りを少し入ったところにあるマンションのような場所だった。社長さんはガタイの大きな人でアートディレクターと話を暫くした後「どうですか?うちへ来ませんか?」といきなり話を切り出した。

 西ドイツの本社といい加減闘い疲れていたし、雨の日に霧に消えてしまう都心を見ながら早く都会の日本資本の会社に戻りたいと思っていた最中だったので、あまり深く考えずに「ハイッ!ヨロシクお願いします!」と言ってしまった。勿論給料が下がる事は判っていたし、半分にならなければやっていけると思っていたのであまり不安は考えなかった。

 翌日、トリンプで採用してくれたマーケティングマネージャーに報告しようと思ったが、何と!彼は2週間前に失脚して退職し、新しいマネージャーが席に座っていたのだった。これを知った時、自分の決断と判断は間違っていないと確信したのだった。

※参照画像のオーディオ機器は、いまでは現物がなかなか無い名機なのでGoogle画像から使わせていただいた。版権をお持ちの方で使用を許可できない方はお問い合わせコーナーからよろしくお願いいたします。他のものに差し替えます。