2014年6月28日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #46.」  ● 実録高校学校生活 その2.

 春夏秋冬、都心の高校生活は色々な事件で落ち着く暇は無かった。もちろん平穏無事な高校生活などこれっぽっちも望んでいなかったので、毎日が面白くてしょうがなかった。普通の平日はクラブ活動やエレキバンドの練習。朝、駅で待っていてくれる下級生女子と一緒に登校、帰りの渋谷までの下校 (これが同じ相手では無かったりもする)。しかし、それ以上の接近は無く、まだまだクラブ活動やバンド練習の方が遥かに心を惹かれる存在だったのは、今考えると正直ちょっと残念な気もする。


http://www.dagashi.org/index.html より転載させて頂いた。
当時の渋谷・恵比寿界隈を知るには貴重なサイト。

 しかし、学校生活に付き物の春休み、夏休み、冬休みは大いに色々な事を楽しみ経験し、高校生らしい悪戯事件も起こした。中学校時代の修学旅行時に起こした悪戯の延長と考えてもらって良い。まずは1年生の夏休み、伊豆の大瀬崎海水浴場の海の家で夜を過ごすツアーに出かけた。男子5名、女子2名くらいだったと記憶している。 行きは沼津から連絡船に乗って大瀬崎まで行ったような覚えがあるが、記憶は定かでは無い。
 ヨシズ張りの海の家は夕方になると、まるで人気のない静かな佇まいになる。夕御飯は近所の食堂で食べ、翌朝もその食堂で摂った気がする。朝も夕方もあちこちの宿舎や食堂から立ち昇る煙が目に染みた。
伊豆の大瀬崎は駿河湾越しに富士山を望む絶景地。当時は全くなかったダイビング屋さんが沢山店を出している所をみると、やはり今でも透明度が高くて良い所なのだろう。

 何故か、自分は昔からこういった賄いの煙や田んぼの藁焼きの煙の臭いが無性に好きなようだ。八代の十条製紙(現・日本製紙)から流れ出るチップを煮る際の臭い匂いも、今となっては非常に懐かしい好きな匂いになっている。こういった特徴のある匂いは、それを嗅いだ昔を想い出させてくれる。
長崎県の千々石棚田で一服中の親子を撮らせて頂いた、画面からも煙の匂いがする?

蒸気機関車の煙の匂いも好きな匂い。磐越線の列車

八代駅前で毎年11月に行われる妙見祭、十条製紙の煙の匂いが重なれば最高だ!

 一方で化粧品の匂いは大嫌い!   
香水たっぷりの女性が同じエレベーターに入ってくると、思わず降りる階まで息を止めて止めたまま我慢する。特にそれが年配の派手なオバちゃんだったりすると、加齢臭も加わって頭がおかしくなりそうになるので、さっさと降りる事にしている。だからデパートの1階にある化粧品フロアはまず通らない。
パリの百貨店、ギャラリー・ラファイエット 2011年渡仏の際撮影

北九州・小倉に着流しで街をさっそうと歩く、小学校時代の粋なクラスメート(実は優秀な歯医者)が居る。或る時彼と博多天神の三越に行った。この三越は西鉄福岡天神駅の真下に在って、横に長い敷地面積を持っている。その彼は目的地に向かって近道だからと称して、この1階の化粧品売り場の真ん中を平気でスタスタ歩いて行ける。こちらは1コーナー歩いただけでも、その混じりあった甘い匂いで気を失いそうになるので、この百貨店に平行して走っている外の表通りを歩いた。これで判るとおり匂いに対する嗜好や感性は個人個人で非常に異なるのだ。
 
いつの間にか話が伊豆の大瀬崎から九州まで飛んでしまった!話を戻そう。

大瀬崎では毎日海に潜って魚を突いた。何故か素潜りで魚を突くのが、この頃のマイブームだったようだ。まず海に潜水具無しで潜るには息を長く止められなければならない。この頃「若大将シリーズ」で全盛期を迎えていた加山雄三が、毎晩9時台にテレビでやっていた帯番組のスター千一夜で、三木鮎郎のインタビューに答えて「僕ぁー息を4分少し止められます」と言っていた。これを聴いて、「そうか、海に潜るには4分くらい息を止められなきゃ一流じゃないんだ!」と思い込んでしまった。それからしばらく、授業中に息を止める練習をしたのは当然の成り行きだった。最初は幾らやっても1分が限度だった。しかし1~2分深呼吸をして精一杯息を吸ってから止めると、長い事止めていられる事を発見した。このコツを覚えてから息止め時間は急速に伸びて行った。最高で3分20秒まで延ばす事に成功した!
海の若大将1965年夏封切り

しかし、事件はその時起こった。思いっきり息を吸い込んで止めて3分に差し掛かった時、「はい!シンジョー君!」と先生に指されてしまったのだ。何の授業だったか覚えていないが反射的に立ち上がった。しかし立ち上がったのは良いが、息を止めて脳内の酸素が欠乏し始めていたようだった。元々あまり中味の濃くない脳ではあったが、酸素不足によって視野の両側から暗い部分が広がり、そのうち眼の前が真っ暗になってしまった。
気が付くと「おい!大丈夫か?」とクラスメートに肩を揺すられる自分が居た。体は床に仰向けに寝ていた。

どうってことは無い、一種の貧血状態に陥った訳だ。先生は勿論慌てただろう。日に焼けて黒い健康そうな男子生徒が、自分が指した事で本人気を失ってしまったのだから、驚き、たじろぎ、多少なりとも責任を感じたのだろう。「じゃー、鎌田君!」と云う感じで他の生徒にお鉢が回って行った。
 
こうした、涙なくしては語れない努力の結果、安定して3分間は息を止められるようになった。魚を突くにもこれなら今までの倍は獲れそうだと歓び勇んで再び海へ行って潜った。目論見では3分潜れるはずだったが、意外にも2分間潜れた事はなかった。せいぜい潜れて1分と少々だった。しかし魚を獲る事に関しては以前より遥かに上手くなったのは間違いない、効果は確かにあったのだが予定とはずいぶん違った。
後で調べたら、人間は皮膚呼吸もしているので、陸上で息を3分間止められても、長い間水中には潜っていられないそうだ。たとえ空気中でも皮膚呼吸が出来なくなるとあっという間に窒息するのだそうだ。これは映画007シリーズ、ゴールドフィンガーの中で、美女が全身に金粉を塗られ皮膚呼吸を出来なくされ、殺されてしまうシーン観て偉く納得したのだった。

誰も居なくなった夜の「海の家」で皆で夜を明かす訳だが、大人と違って酒盛りをするわけでもなく、星空を眺めながら話をしているうちに、いつの間にか寝込んでしまった。もちろん都会で生活している時よりはるかに早い時間の就寝だった。そのかわり朝は早かった。寒いのだ、寝ていられない気温だった。夏休みと言うのに海辺の朝は想像以上に寒い。高校生だったからまだ良かったが、60歳過ぎてこう云う事をすると永遠に冷たくなってしまうかもしれない。オアフやマウイのサーフショップで売っているTシャツも、半袖より長袖の方が多かったりするのはこれが理由かもしれない。
大瀬崎の最近の海の家 Google画像


余談になるが、こうして初めて海辺で宿泊・生活する楽しさを覚えた感動と経験が、その後30歳から60歳になるまで約30年間もの長い間ウインドサーフィン中心に海廻りで活動したエネルギーになっているのだと思う。しかし、海に夢中になり、ウインドサーフィンも一気に上達して台風の時でも沖へ出られるようになった時、幾度か会社を休んで楽しんだ事は有るが、決して海の傍に住もうとは思わなかった。葉山の森戸海岸・森戸神社境内をベースに20年以上もジモティ(=地元の人間)のごとく通いで活動していた。TVドラマに出て来そうな昔の別荘が在って、幾度か購入も考えながら手ごろな物件を下見にも行った。しかし眺望は最高・抜群なのだが、価格の割に広すぎるのと、夏の治安に多少の不安が在ったので東京に住んで、ウインドサーフィンをする時だけ葉山や三浦海岸に行くというスタンスはとうとう変えなかった。
森戸神社裏の岩場海岸 夏は1軒だけ海の家がオープンしていた。夏以外は無人の浜となる。

晴れて風が強ければ正面に富士山が見える。25年間毎週末通い続けた心のふるさと。

理由ははっきりとしている。海際に住めば、いつも目の前に海が在って当たり前。最初の6か月は仲間に自慢しながら、住んで良かったと思うだろう。しかし会社勤めの身で、今日は重要な会議が有る、プレゼンが有る・・・と言う日に、真っ青な空で朝から安定したガスティではない15ノット以上の南西風が吹き、白波が立っていたらどうする?海に出る?会社行く?どっちを取る?結局は後ろ髪を引かれながら90分かけて東京へ行かねばならない。これは非常にストレスが溜まるというものだ。


海が在って当たり前、風が吹いていて当たり前。週に5日も「午後風が上がるかも知れない」と思いながら、辛い気持ちで都心に通うのと、平日は仕事に集中し、週末の2日間の事を天気図を観ながら楽しみに待ち、週末に成ったら葉山に向かうのと一体どちらが精神衛生上良いか?これを考えたら海岸沿いには絶対に住めないと思った。潮風で洗濯物は乾かないし、台風の時は家が壊れるかもしれない。潮風で家の外壁は直ぐ痛む・・・こういった言い訳をしながら海辺には住まなかったのだが、実際の理由は先に述べたような事だった。これは正解だった。