2014年6月15日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #43.」 ●1965年は日本の風俗革命元年 その3.

此処に当時婦人画報社から1965年6月、ちょうど今から49年前に発行された雑誌MEN‘S CLUB「メンズクラブ」の43号、最初のアイビー特集号がある。神田の古本屋などに数多く現存する「メンズクラブ」の中でも、最も日本のメンズファッション界に大きな影響を与えた歴史的な記録資料だと思う。綺麗なものは10冊も現存していないのではないだろうか?昨日たまたまYahooオークションを観ていたら、この#43号メンズクラブが¥20,510円と云う信じられないほど高額で落札されていた。
メンズクラブ#43号 非常に貴重な日本のメンズファッション史の資料。

表4、つまり裏表紙はこの後VANのシンプルな広告が続く。

もちろんYahooオークションに限らず、神田の古本屋街でも今はなかなか手に入らない。いろいろ訊いて回ったら、日本のメンズファッション界の古雑誌、昔の資料は数が少ない上需要が多く、古書にしては在庫回転が非常に早いという。特に日本の男子が学生服から私服・普通の服装に変化する辺りの時代資料は、メンズクラブや平凡パンチに頼らざるを得ないそうだ。自分的にも文庫本など一般の本はたぶん他の人より多く色々読んだが、雑誌と云うのはメンズクラブ、平凡パンチ、オーディオ関連、ミュージックライフ程度、しかもほとんどが本屋店頭での立ち読みだった。

ファッション情報は広尾高校のクラスメートから得ることが殆んどで、実際自分が身に付けるモノと云えば、欲しいけれど高くて買えないVAN製品の偽物か、似たようなモノで我慢する事が多かった。と言っても学校で過ごす時間が全てに近いので、私服で何処かへ出かける機会も殆ど無く、せいぜい学生服の下に着るボタンダウンのワイシャツ、学生服代わりのチャコールグレーのズボン、ベルト、靴程度で自己主張するしかなかった。ボタンダウンのワイシャツもVANの製品は非常に高いので、新宿の伊勢屋や三峰の店頭に山ほど積んであった安いものを買った。それ以外、学生服を着ていて、必ず外から見て判るのがズボンと靴とソックスだろうか。ズボンはタグを観ない限り、VAN製品か否かなど判ろうはずもなく、外から一見して、あるいは脱ぐことによって、直ぐに判る靴とソックスに自己主張が行くのは当然の事だった。したがって、何はさておき靴だけは親からもらったお金に貯めた小遣いを足して、無理をしてVANリーガルのコインローファーを買った。
これが3代目、VANリーガルのコインローファー。

何故か中敷にVANと刻印(だいぶ消えかかってきた)された、これだけは3代目(1980年代に購入)だが未だに大切に持っている。今でも余程の事が無い限り履かない。もちろん手入れはきちんとしているが、30年近く持つ靴と云うのも凄いと思う。書類や写真ではなく、現物で当時のファッション物が現存しているのは、ネクタイとKentのダッフルコートと、このVANのリーガルシューズくらいだろうか。
VANリーガルの靴は高校生には高嶺の花だった。#43号

 靴も1足ではあっという間に履き潰す事に成るため、幾つかをローテーションで使いまわすのだが、一番良く履くタイプはプレーントウタイプの黒だった。しかし、このVANリーガルシューズも非常に高価だったため手が出ず、ほぼ似たようなタイプの踵のコバがとても厚い、重たい靴を渋谷地下街で購入した。高校の通学帰り道で渋谷東横には良く行っていたため、この渋地下商店街は本当に良く行った。50年経って、渋谷エリアの大都市改造計画のあおりで、無くなってしまうかもしれないが頑張ってほしいものだ。

散々通った渋谷地下街の靴屋さん

靴やワイシャツなど、アイビー・トラッド系の製品を身に付ける事で「お仲間」に入れたと思うのが高校生としては精いっぱいだった。メンズクラブなどでは、アイビー対コンチネンタルの違い特集などを盛んに組んで掲載していたが、高校生ではスーツやブレザーを着ても行く場所が無かった。
アイビーか?コンチか?と論争が在ったような気もするが、当時は無理やりメディアが論争を造っているような気がした。何故ならこれは高校生には無用のスーツやジャケットだけの論争で、それ以外のアイテムでコンチネンタルの領域のイメージが全くなかった。#43号

学生服以外の私服を着て、気に入った女の子を電話で誘い出して、デートをするなどという行動に、笑顔で娘を送り出す親はまだまだ日本には少なかった。そもそも電話するにも睨みを利かせる父親という壁が大きな障害物になっていた。したがって今のように携帯電話が無ければ起きないような男女絡みの若年層犯罪は、まだ殆ど無かったと言って良い。
自分でも気に入った女の子の自宅に電話してみたが、何故か出るのは決まって父親だった。    Googleフリー画像

 VAN創設者の石津謙介社長ほか中心人物が読者参加の人気コラム「街のアイビーリーガース」に出ている意味でも、#43号のメンズクラブは貴重な号だろうと思う。この号だけIVYに関する創生期の重要人物が載っているので「街のアイビーリーダース」になっている点、芸が細かい。この石津謙介社長に関しては、個人的な思いも非常に深いので、別の機会にしっかりと掲載させて頂きたいと思っている。石津謙介社長は我が恩人でもあり、最高位の上司でもあり、「色彩学」に関してある夏の晩、山中湖のヴァンガローと云う会社の保養施設別荘で夜どうしいろいろ教えて頂いた恩師でもある。「目立つ」と云う事に関しての天才的技とセンスを持っていたので、随分盗ませて頂いた。
石津謙介社長自ら出ているこの街のアイビーリーガースは、貴重なページだと思う。#43号

 話を高校時代にもどそう。

勿論我々は高校生だから、放課後学生服をどこかで着替えて街に繰り出す等と云う事は無かったし、週3日はバレーボール部の部活だったので、クラブメンバーの下校時間はどうしてもクラスメートが殆んど下校した後だった。しかも、部活の後だけに腹が減ってしまい、渋谷へ出るより恵比寿のラーメン屋「栄来亭」へ直行する方が遥かに多かった。この「栄来亭」は2階建てで、1階がカウンターのみ、2階にテーブル席と云った昭和時代の中華料理店のごく一般的佇まいだった。1階はその半分以上が厨房領域で、ものすごく大きな業務用冷蔵庫の前に3人のコックさんが白い服を着て、もの凄い手さばきで次々に注文料理を造って行くのだった。
栄来亭の画像は無いが基本的にこんな感じだった。


高校生が小遣いで食べるのだから、当然一番安いラーメン以外あまり食べたことは無かった。しかし週に2~3日通う事で顔なじみとなり、行くといつも大きな御釜で焚いたご飯の見事なおこげの部分を、ラーメンと同じ大きさの丼に入れてサービスしてくれるようになった。時には野菜も食べろと肉野菜炒めをサービスしてくれることもあった。これは小さめのお皿だったが、とても有り難かった。この店は5~6年前まで在ったようだが、今はもう無い。

クラブ活動の帰り、渋谷に向かう通学路の途中に、御婆さんがやっているパン屋さんが在った。このパン屋に立ち寄った時、数人がアレくれコレくれと一斉に注文する。その隙を見てジャムパンやチョコパンをくすねて、あっと言う間に食べてしまい、代金を払わずに何食わぬ顔で立ち去ってしまう事を幾度かやらかした。しかし社会人になって、この事が頭から離れず、10年くらい経ってからおばあさんのお店に「実は~」と事の次第を話して、1万円ほど払いに行った。そうしたら「ハイハイ判っていましたよ。でもこうやって来てくださる方も貴方で8人目ね?」と言われ、他のメンバーもそうやって後で代金を払いに来たことが判って、何故かほっとした事を覚えている。


高校時代は渋谷宇田川町の音楽喫茶、純喫茶で、友達と長逗留するのが楽しみだった。この純喫茶・音楽喫茶と云うたぐいは、宇田川町の飲食街に集中していて、1階や地下の階はアベック(=カップル)専用のもの凄く暗い空間を持っていた。今時に比べれば昭和30年代40年代の東京の男女は人目を忍んで、非常につつましやかな接近方法を取っていた事が良く判る。同時期の九州などではもっとオープンで、ダイナミックな男女の接し方であった事を、小中学校時代のクラスメートに聞かされて大いに驚いたものだ。考えてみれば、自然が直ぐ傍に在る地方都市なら、人が居ない二人きりに成れる場所など、幾らでも身近に在る訳だ。しかしこのブログでは、具体的に何をするなどと云う事はこれっぽっちも述べない。大体は読者が想像するような事だと思って良い。