2014年6月14日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #42.」 ●1965年は日本の風俗革命元年 その2.

1956年封切りの映画「太陽の季節」「狂った果実」の太陽族に始まり、六本木野獣会つまり六本木族などは、戦後の裕福な上流家庭の子弟が親の金を元に、それまでの一般常識を破る意味で、不良的行動を行う群れの様な存在だった。あわせて彼らとその行動特徴を、数多くのメディアが取り上げる事で、一種の若者たちの憧れ的存在となった。これらは歳も近い団塊の世代が兄や姉の行動にその一部を見て、ある程度身近な事だったと言って良いだろう。その「族」の一部のように成りたいがため、湘南や六本木へ出かけて行く東京近郊の若者たちで、それらのエリアでは年中、昼夜を問わず小さな事件が多発していたようだ。
代表的な映画「太陽の季節」「狂った果実」何れも原作は石原慎太郎元東京都知事。     Googleフリー画像より

基本的にはカミナリ族、暴走族、人気タレント追っかけなどの、昭和~平成の現代に至る若者達の付和雷同型行動と、何ら本質は変わらない。日本人の若者は、昔も今もそうやってツルムのが好きな人種なのだろう。一人では何もできないのが、一部を除いたほとんどの日本人若者体質なのかも知れない。余談だが、1983年~1995年頃広告代理店の仕事でハワイのマウイ島などでウインドサーフィン国際大会のプロデュース・運営をやっていて、いつもそう感じていた。日本人選手は、必ずビーチの何処かに固まって一緒に居る。これは英語を十分駆使できないというハンデと、一人では心細いというのが原因なのか?そんな中、孤高の行動スタイルと独自の価値観を持ち、トップ選手のロビー・ナッシュやマーク・アングロなどと対等に話をする沖縄久米島出身の新城克志選手の出現は、1990年当時非常に興味を引かれたものだ。漢字は違えど同じ「しんじょう」と云う苗字のせいか、マウイに居た頃は親子ほど年が違うにも拘らず、盛んに交流したのを覚えている。彼を観て日本の若者もこの先変わるに違いないと思った。
世界のロビーナッシュと対等に接する新城克志 1990年頃ハワイ・カウアイ島で撮影

 こうした背景の中、1964年頃東京銀座のみゆき通りに、青山のヴァン・ヂャケット=VANの紙袋を小脇に抱えて、雑誌メンズクラブのファッションページから抜け出たようなスタイルで、意味も無くたむろし行き来する人種が出現した。皆一様にVANの製品を中心に身に付けていた。中でも異様だったのは、都会のど真ん中銀座と云う伝統的で格式の高い場所において、本来ビーチで着るような中途半端な長さのカラフルなショーツ(=バーミューダ・ショーツ)を穿き、スリッポンとも呼ばれるコインローファーを履いて、自己主張をする者まで出始めた事だった。

事件や話題を追い掛け回し生業としているマスコミ・メディアが、これらを放って置く訳が無かった。あの坂本龍馬が、着物に革靴を履いた時以来のファッション珍事と映ったのだろうか?あっという間に新聞のコラム、週刊誌、映画館のロードショウの前に流れる映画ニュースなどで、日本中にこの集団の特異なファッションや行動が広まって行った。「みゆき族」の誕生だ。渋谷の東急文化会館(=今のヒカリエ)の渋谷パンテオンで封切られた、映画「007ゴールドフィンガー」のロードショーの冒頭に上映された日本映画ニュースでこれらの報道を観た。
Googleフリー画像より

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この「みゆき族」は、それまでの「太陽族」「六本木族」、ましてやバイクを乗り回す「カミナリ族」とはずいぶん違う集団だった。太陽族は、映画「太陽の季節」「狂った果実」などに出演した長門裕之、南田洋子、石原裕次郎、北原三枝、津川雅彦などの芸能人中心に、追っかけに近い群れであった。一方野獣派とも言われた六本木族も加賀まり子、大原麗子、中尾彬、ザ・スパイダースのメンバーかまやつ・ひろし、井上順などと、その取り巻きグループで構成されていたが、みゆき族にはそういう芸能人的・コアな著名人はいなかった点で、大きく異なっている。もちろん大声を上げて騒いだり、女性目当てのギラついた眼をして徘徊する若者たちでもなかった。
あくまで一般の人間たちの集団で、都内在住の者も勿論居たが、東京近郊から集まってくる者が多かった。彼等と太陽族や六本木族との大きな違いは、外人との接点だろうか。太陽族にしろ、六本木族にしろ、必ず当時の駐留米軍(=進駐軍とも言った)関係の外人、特にアメリカ人、更には国内の立川、横須賀、本牧と云った米軍基地に出入りする人種との深い交流から入ってくる、アメリカ文化・風俗・物資が重要な役割を果たしていた。ドラッグ、危ない護身用の武器、洋酒・洋モク(外国製煙草)など、片言日本語の外人と片言英語の日本人による一種独特のインターナショナルな世界が存在したのだろうと思う。
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 しかし、みゆき族はそういった点では、ごくごく普通の家庭の坊ちゃん嬢ちゃんの集まりで、外国、特にアメリカの存在は映画やレコードジャケット・雑誌を通した程度の遠い存在だった。彼らの行動自体も、基本的にはただ単に目立ちたいのが動機でありエネルギーで、ある意味近代日本人の若者としては、静かな自己主張を都会の真ん中で行い始めた、最初の普通の人々ということになろう。ひょっとするとこの「みゆき族」は江戸の元禄時代に派手に着飾った若者たちと、共通する何かが在るのではないだろうか?唯一「同じ意図を表する連帯感の印」として、VANの紙袋が存在したのだろう。簡単に言ってしまえば「持っている事自体カッコいい」。ちょうど世界中の種々雑多な人種が集まってできたUSA=アメリカ合衆国の国民の唯一共通のシンボルが、あちこちに掲げられた星条旗であるのと同じようなものだろう。

余談だが、この辺りは関西学院大学で教鞭をとる難波功士氏が「戦後ユース・サブカルチャーズについて(1)太陽族からみゆき族へ・・・という論文(※注1.)を発表しているが、彼自身1961年生まれの為リアルタイムの当事者ではなく、当時の事を記したメディア文献や評論文献を元に作成しており、残念ながらニュアンスが事実とは相当違っている部分もあり、認識の間違いも多々ある。参考文献にばかり頼り、当時の平凡パンチやメンズクラブそのものを実際に読んで研究していない事自体、今風のイージーな論文の造り方なのだろう。調べてみたら、博報堂に在籍していた事もあり、私の後輩でもあるようだ。しかし基本的に画像資料を用いないで、この当時を論じ説明すること自体不可能だと思うが如何だろう?それに内容が内容だけに、難しい言葉、専門用語を羅列して解説する様な事でもない筈だが・・・。

一方で、この「みゆき族」はコアな人物・シンボル的な人間が存在しない点で、刹那的なものであり長くは続かなかった。・・・というより、VAN製品の拡販により、これらの人種がみゆき通りと云う街の一角からVANの専門店が在る渋谷・新宿・池袋といった都内各所や、全国のファッショナブルな街々に爆発的拡散・増殖して行ったため、纏まって見えなくなったと評した方が正しいかもしれない。平凡パンチあたりで盛んに掲載されテレビでも紹、介されたため、ニュースネタとしては新鮮さを失い、1年も経たないうちにメディアには載らなくなっていった。
しいて言えば、メディアがそういうシンボルを捜してコアな部分に持ち上げたのが、VANという3文字の横文字ファッションブランドであり、それを赤ベースに黒白黒のアルファベットでデザインされた茶色の紙袋だったろうか。
自宅保存版

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このVANの紙袋を持ち歩くのが仲間に入れる最低限の条件だった。しかし、その紙袋を持つためには、当時としては高い価格帯のVANの製品を買わなくてはいけなかった。高校生だった自分は茶色い紙袋を文房具屋から買って来て、ポスターカラーでVANのロゴを書き入れ偽物を手造りし、仲間に売ったりもした経験もある。何故だかVANショップに行って、店員とねんごろになって紙袋を貰うという方法はとらなかった。高校生の小遣いでは、高くて買える製品が無かったせいもあるかもしれない。まだまだ当時のVANショップ、VANコーナーの敷居は一般の高校生には高いモノだった。VANの製品が親にネダッテもなかなか理解されない高い価格帯だった事だけは確かだ。
この紙袋と同時にメディアが注目したのが、石津謙介と云う天才的なファッション・文化風俗プロデューサーであり、彼が創設したVANというブランド、並びにヴァン・ヂャケットという企業だった。まさか自分がこの7年先、就職活動の最初の会社訪問先として青山のヴァン・ヂャケットに行き、この石津謙介社長と面接して、その日のうちに採用されるとはまだ想像もしていない1965年の話。
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 ちなみに、正式にそのヴァン・ヂャケットへ入社し宣伝部販売促進課に配属された最初の日、販売促進課の紙袋やステッカーなどのノベルティ・プレミアムが山と積まれた備品倉庫のカギを渡された時、早速倉庫に行ってこれら宝の山の上にどっかりと腰を降ろして、「最高!これぞ海賊の宝の山を見つけた気分!」と大喜びした。 
しかし、ものの3分も経たないうちに、これらの宣伝物がいつでも手に入ると思った瞬間、あれだけ執着した紙袋やノベルティに対する価値観・憧れがウソのように消えて行った。この事はものすごいショックと共に覚えている。人の気持ちなどと云うモノは、ほんの数秒で大きく変わってしまうのだ。
自宅保存版

自宅保存版・インスタントレタリングVAN意匠室専用・特注品だった。

 このVANの話や、みゆき族など当時の急激な日本の文化風俗の変化の話は、リアルタイムで当時を知らない人々ではなく、元VANの社員・関係者、当時のVANを取り巻く業界人、一般及び繊維業界のメディア関係者による事実に基づいた記録論文を残すべきだろうと思うが如何だろう?一度どこかの出版社が、あちこち聴きまくって本を造ろうとしたようだが、機が熟していなかったのか、本当に中枢にいた人の話を聴けなかったのか、失敗に終わったようだ。やはりVANの場合本当の中枢で活躍した人ほど、当時の事を赤の他人には話さないようだ。

この頃、平凡出版から発刊された週刊平凡パンチの表紙(大橋 歩イラスト)が街中のアイビーファッションの男女を描いて大人気になった。挙句の果てには、広めのセロテープでコーティングした定期入れを持つ事が一種のステータスとなり、高校のデスクでクラスメートの分を一体何個造った事だろう。所詮雑誌の表紙を加工して造るものだけに、耐久性には欠けているので定期自体も1か月や3か月分を購入し、定期券ごとセロテープでぐるぐる巻きにして造るようになっていた。次の定期を買う際には使用済みの定期券と交換になるため、それをそのまま駅の窓口に出して変な顔をされた経験も幾度かある。
平凡パンチ別冊・大橋歩の表紙集より

懐古的試作品

平凡パンチの表紙をいかに効果的にレイアウトするかがポイントだった。

 定期券を差し込めるように造り、細めのセロテープで何重にもコーティングしてしっかりとしたものを造った時に、5か月間使用に堪えた事が有ったが今は遠い想い出だ。