タイトルと中身が随分違うじゃないかと思われた方も多いと思う昨日の投稿。今日はその核心部分の話になります。真剣だけにいささか厳しい指摘も在ろうかと思うが、平にご容赦願いたい。
いわば、昨日の部分は長ーい前置き。
おなじ球磨川下流部の八代市での観光活性化活動に参画した話の延長線上に、ヤマセミで身近になった人吉市の話がのっかってくる。
2010年4月1日エイプリルフールの日に八代市から球磨川に沿って国道219号線を遡り、かっての国民宿舎くまがわ荘の横で球磨川にかかるワイヤー架線上のヤマセミを撮影したのが最初。(・・だと思い込んでいた)
実は同じホルダーの16分前の画像にそれと気づかず撮影していたヤマセミが存在したことが8年後判明。
此処から2020年3月に人吉市を訪れるまで毎年5~6回、多い年は10回も東京と人吉・八代を往復してきた。当然一般の観光客とは滞在方法(私費で300泊している)も、食事方法も、デイリーの行動(ほとんど球磨川・川辺川の土手沿いにヤマセミ観察)も大きく異なる。
当然それだけの滞在時間で観るモノも触れるものも違うのだが、人吉の持つ「よそ者から見た魅力」は充分その本質を判っているつもりだ。
勿論、長年地元在住の人々の持つ「人吉自慢、人吉らしさ」とは全然異なっているだろう。
そんな中、2014年の冬頃人吉城址へヤマセミの巣穴のチェックに行った際、面白いものを見つけた。地元の人に訊いてもそれが何であるかなかなか判らなかったし、存在すら知っている人が見当たらなかった。
先月、八代へ行った際いつものミック珈琲店で人吉市ご出身の筆者が尊敬している作家・前山光則さんにこの話をしたがご存じなかった。
それが「断髪記念供養塔」なる石碑だ。建立は昭和10年とある。明治4年に政府が断髪令つまり髷を落としてザンギリ頭になれという命令を出し、国民が慣れ親しんだちょん髷を落としたのだ。
その65年後の記念日(昭和10年)にこの塔を人吉市の理容業組合が立てているのだが、その詳しい理由・経緯が良く判らない。
小さい時(明治四年)に髷を泣く泣く切り落とした人が齢を重ねて65年後、その時を思い返して記念塔を作ったのか?はたまた切り落とした髷を床屋が捨てられず65年間保存してきたものをこの記念塔に埋めて供養したのか?経緯を調べて文化財としても良いと思う。
なにせこんな面白いもの日本の他の地区で観たことがない。律儀でまじめだった昔の人吉の人々を彷彿とさせる文化財ではないだろうか?
いくら初夏の緑の勢いとはいえ、その塔の傍まで行けないような管理の仕方、筆者は疑問だ。文化財としての価値に気が付いていないように思える、残念だ。