一方で、ターゲットを絞り込めないVANBOYSは「〇〇円以上お買い上げの方に〇〇プレゼント!」という、超定番グリコのおまけ方式の販売促進キャンペーンを実施する事でお茶を濁す事になった。しかし、ノベルティのアイテム決定に関しては一緒に協力して行う宣伝課の同期内坂君のアイディアで、コットン製のサイクルバッグを作る事になった。たぶん当時の日本ではサイクルバッグって何?状態だったろうと思う。この内坂庸夫君に関してはエピソードが沢山あるので、少しづつ小出しにして行こうと思う。数年前、こちらがまだ知らないYouTubeという無料映像サイトがあって、あのGerry & the Pacemakersの「Ferry across the Mersey」を観られるぞ!と教えてくれたのも彼だ。とにかく昔から新しいものに関する情報は非常に早く、さすが「マガジンハウスの雑誌ポパイに内坂あり!」と言われた雑学情報通・メディアマンだ。
英国のコレクターからネットで購入した「映画マージー河のフェリーボート」のDVD。日本では未公開未発売。
あの当時のリバプールが如何に古びて貧しい街だったか良く判る。基本的には「映画・A Hard day's night」のそっくりさん的音楽映画。レコード発売されたテイクとは随分違う部分多し。
1972年に英国で購入したオリジナル盤、普通はこんな暗い写真をレコードジャケットに使うなど信じられないが、冬のリバプールの感じを出したのか。どれもがはじけるような明るい米国盤のレコードジャケットと異なって、どこかターナーの絵のようで、なおかつ英国っぽくて気に入っている。
我が同期、内坂君の理念は昔から頑固一徹、筋が通っている。「自分で出来ないものは記事にしない」、逆に言えば「記事にするものは必ず自分でやってみる!」スキー、アイスホッケー、ウインドサーフィン、スノーボード、トライアスロン、トレイルランニング、マウンテンバイク、その他私が知らないものもハードなものばかりだが随分やっていると思う。
この内坂君がまだ誰も知らなかったサイクルバッグを提案してきた時、何だそれは?どうやって使うんだ?どう作るんだ? 侃々諤々、喧々囂々結構問題になった。もちろんあのうるさいVANBOYS営業課長からは、自分がこのノベルティの意味を判らないので不評だった。「何だこれは?こんなものでお客が喜ぶのか?」だったが、「こんなもので悪かったね?アンタがターゲットじゃないし、嫌ならいーんだよ?止めちゃうから。」と言えるのが販売促進の強みだった。
内坂庸夫氏(現マガジンハウス・ライター)発案第1号のVANBOYSノベルティ。彼はその後1980年代になって雑誌ポパイ40ページの自転車大特集のタイトルに「Run・Run・Run」と名付けている。
VANBOYSのノベルティの5年後、新しくスタートしたSCENEブランドでも「ヨセミテ・ラガー」といわれたラグビージャージのデザインを取り入れたサイクルバッグが登場している。
「会社の中で一番強い部署、でかい口を叩けるのは何処だ?」がいつも議論される熱気に溢れた若い会社だった。普通考えれば最先端前線でヴァン ヂャケットの商品を販売している販売員スタッフが一番偉いのは当たり前だった。彼らが現金をお客様から頂く訳で、営業担当より直接的で「偉い」とされていた。販売実績が伴わなければ営業マンも「ダメ印」を張られてしまう。
話は戻るが、当時も経理、人事、総務、その他管理部門の職種より現金を売り上げる営業販売部門が社内で大きな顔を出来るのは常識だった。しかしその営業・販売部門も頭が上がらない怖い部門があった。
それは商品物流を全て司る「商品管理部」通称「商管」と、「販売促進」通称「販促」だと言われていた。どんなに脅かしたり、急かしても「商管」がつむじを曲げたら商品がお得意様に届かない。昔はパッキンが着いて箱を空けたら売れ筋が欠品していたなどと言う意地悪なども結構あったようだ。
戸田本部長という重戦車のような営業本部長の全社員への訓示の中に、「行方不明の商品が下代で年間1.5億円分も有る!一体どういう事だ?この欠損が無くなれば、我が社の売り上げが1.5億円伸びる事になる。」と剣幕で怒鳴った事があった。商品管理部門というのは、社運をも左右する非常に重要な部門なのだ。
そうしてもう一つが「販売促進部」。キャンペーンやプレミアム、ノベルティを作り得意先へ配布するこのセクションに睨まれたらキャンペーンは出来ない、ポスターは届かない、VANのロゴ紙袋は届かない、宣伝材料は届かない・・・もう現場は非常に困ってしまう訳だ。
だから、その辺りを一番良く判っている営業さんは、顔なじみになるほどちょいちょい販促の部屋に遊びに来て営業情報、売り場情報、他メーカーの情報、業界の噂、社内の噂を持ってきてくれる。
これは非常に貴重な存在だ。自分でも良く売り場へ入ったが、現場の状況は表からしか判らない。だからもちろん、そういう営業さんにはこちらからも販促情報をどんどん出すし、数少ない特別プレミアムなども提供する。これはあくまで個人的利権ではなく、それだけ熱心な営業さんであれば顔が広いので、得意先からの反応、作ったものへの広いジャンルからの評価を貰えると踏んでの事だ。
この典型がヴァン ヂャケット営業の鏡、横田哲男君であった事は疑う余地も無い。販促課に出入りするヴァン ヂャケットの営業さんで、アイスホッケー部所属以外のメンバーでは彼の一番訪問頻度が高かったかもしれない。これは筆者と同期だと言う事以上の何かがあったのだろう。
これは横田君の話ではないが、販売促進の部屋のカウンターには色々なパンフやポスター類と同時にノベルティ、プレミアムのサンプルや何かの残りが置いてあったりする。部屋に来た他のセクションの人たちは帰り際に気に入ったものを「これちょーだい?」と言って持っていくことが多い。時には黙って持って行ってしまう事もある。これを「チーする」と言っていた。「ギる」とも言う。
実はこれは作ったプレミアム・ノベルティの人気度、話題度を推し量る非常に良いマーケティング・リサーチになるのだ。VANの社内の人に人気が無いモノは世の中に出しても人気は無い。社内の人間に人気があり奪い合いに成る程であれば、世間に出ればもう超人気になること間違いなしという訳だ。
VAN倒産の3年前、「My woody country」の宣伝キャンペーンの一環でカーペンターキット(米国製大工道具セット)を100名の方にプレゼント!・・・をやる事に成った時は、まず社内が大騒ぎになった。あの手この手で宣伝課や販促課へ「裏口ちょーだい要請」が来るのだった。このキャンペーン自体はいつもの販促課ではなく、宣伝課主導だったのだが、一般への告知が始まる頃にはとんでもない状況になっていたと思う。電話の申し込みの受け皿は初日でパンクした記憶がある。宣伝課に置かれた10台ほどの受付の電話機は鳴りっ放しでその部屋では仕事にならなかったと聞く。
メディアや広告代理店業界では名の通った宣伝キャンペーンにはなっているが、実態は・・。
自分のデスク周りを撮影した画像にこのカーペンターキットが置いてあったが、肝心の中味が実用的でない為誰も自分の物にしようとは思わなかったようだ。自宅に持って帰っても置くところがないし・・・。
結局何個作ったのか良く判っていないが、製作数の半分も一般の人の手には渡っていないと視る。今の時代にそんな事を行ってバレたら、メディアに一斉に叩かれて逆効果もはなはだしい大変な事態になっていたろうと思う。今回の東京駅100周年記念Suica発売の際の「物欲日本人」たちの凄まじさは報道でご覧の通りだ。
当時も今も日本人の本質は変わっていない。宣伝・販促活動の難しさが此処に在る。