入り口を入ると、まず幼稚園の世界が広がる。
筆者も中学校と高校の美術の教職免許を取得しているし、短い期間ではあったが教育実習や専門学校の講師を務めた経験があるので、「美術の教育」に関してはいささか興味があった。入場無料だったので既に2度ほど足を運んで結構じっくりと展示を観た。
筆者は大学時代教育学部の美術専攻科に所属し、必須の油絵で「人物」を描かない理由を担当教授に問い詰められ「私は人間が美しいと思える瞬間を描写したい、人間が他人に感動を与える瞬間、例えば馬鹿笑いをしている瞬間、怒髪天を付く瞬間、号泣している瞬間など・・・。しかしそういう絵が歴代の名画に見当たらないのは何故か?」と答えた。
続けて「そういう感動の瞬間は人間の感情がほとばしる一瞬であり、モデルに笑い続けたり、怒り続けたりはさせられないから描けないのだろう、そういう一瞬を描写するには『写真=静止画・動画』の方が適しているのだと思う、だから私は人物は描かない・と答え納得してもらい、技術棟に官費で暗室を造ってもらった経緯がある。良い時代だった。しかし、写真に関しての教授・講師、授業が無かったので今撮れている写真は全て素人の自己流だ。この項はまた別の機会に。
こういうややこしい性格の筆者がこの「美術の授業ってなんだろう?」を観た印象と考えた事をご紹介しようと思う。
展示物の大きさを示すための筆者と展示物の比較画像。(芸大パート)
で、この東京藝術大学(以降東京芸大)の展示方式はいわゆる色々な学会で良く行われている「発表方式」の口頭発表とインタラクティブ発表の後者の方法を取っている。展示と説明文貼り出し方式だ。
入り口から幼稚園ー小学校ー中学校ー高等学校ー大学(主に東京芸大)の順に全国の代表的な授業内容が紹介されている。
自分が感じた総論を先に言ってしまうと、普段普通にルーティン・ワークとして行われている美術の授業とは異なって、特別授業を行ったレポートを主宰者が抽出して展示したものだと思うが、美術の教師が受け持ちの生徒を実験台にして自分の美術教育の実験をしているように見える展示が思いのほか多く驚いてしまった。
年中この手の授業だけだとすると、子供たちは美術の基本的な部分に触れないまま美術授業の実験台にされただけで、上へと進んでしまいかねないが、まさかそれは無いと思っている。
しかし、子供達が実体験も無く、色々な意見や考え方のフィルターを通して報道され、伝聞された72年前の広島や長崎の原爆の事を、投下原因・理由、太平洋戦争の流れと、それまでの時代背景を一切知らないまま「原爆の悲惨さ」だけを部分的に切り取って教えられ、手法は何にせよ授業と称して描かされるのはどうかと思った。
何故マンガなのか?
特に、展示にもあるように、その美術教育内容がメディアの恰好の「ネタ」として取り上げられることを予測しての「やらせ的」内容である事が誰の眼にも判り、長年広告代理店勤務の筆者からすると作為的な厭らしさを感じて仕方がなかった。
目立ちたがり屋の美術教師の目論見が見えて仕方がなかった。
筆者も「広島原爆」で叔父を亡くし、自分自身投下翌日広島市内を歩き回った両親のDNA欠損が遺伝したおかげで左目先天性弱視(視力0.05)という影響を受けているので、余計気になってしまった。
例えば、筆者が横国大の附属中学校(山手)の教育実習で行った日本の伝統色(海老茶色、黄金色、桜色、蜜柑色、枯草色など)の代表的な色を具体的にそれを使用した物を実際に生で見て触って覚える授業。
あるいは太陽の位置が移動する事による影の出来方・変化で、物がどう立体的に見えるかを行った授業。部屋を暗くし、電球を棒の先に下げて皆で造った町の模型の影がどう動くか学び、それを描く試みの授業。 「美術領域」限らず「自然」「物理」「日本の伝統・歴史」などにまたがる幅広い美術教育がもっともっと有っても良いと思うのだが如何だろう?
世の中にはもっといろいろな授業があると思うのだが、取り上げられている選抜内容はもう少し広い対象校からのモノが欲しい気がした。例えば雪国や北海道であればそれなりに雪や広い牧場を使った授業、南国鹿児島であれば広い白砂を使った砂の芸術だとか、教室や都会の学校だけの活動では子供達自身が夢を持たなくなるのでは?
それに、こういう展覧会に子供達が来るのだろうか?あえて見せないのだろうか?国立科学博物館の「虫展」に来たついでに、こちらも見せてあげて欲しいと思った。
※(注)虫展は10月8日で既に終了。
この項、まだまだ続く。