2016年5月7日土曜日

団塊世代、想い入れの熊本城の地震前の画像紹介。その2. The Beautiful Kumamoto Castle before Kumamoto huge Earthquake.

 熊本城の破壊度は物凄い事に成っている。その後の余震(実は今までのは全て今後来るメガ地震の前震という怖い話もあるが・・・)も5月5日には震度4が1日に3度も在ったりして、まだまだ予断は許さない。復興もこの余震の収まり、先への展望が在る程度物理的にも精神的にも定まらねば、手を付けられないというのが実情。

 被害の激しい益城町、嘉島町は熊本市が政令指定都市に成ろうと合併を勧めていたのを断り続け、熊本市自体が最後の政令指定都市になるのを数年遅らせる原因になった地域だと聞いた。
 運悪く、ちょうどその二つの町の直下を活断層が通っていて今回の悲劇に繋がってしまったという。行政組織が違うため、隣接する熊本市の市としては直接救援に動けず県が対応せざるを得ないため、初期の救援復興に支障をきたしたという。後悔先に立たずだ。

 東京に居ながら、熊本市内にいる友人知人、八代市にいる多くのクラスメートや知人からの連絡にヤキモキしている。夜は寝床で4月14日以降トランジスタラジオ(まだ動く45年物)を中学時代よろしくNHK第一付けっ放しで寝ている。

 Part1.で紹介した通り、熊本県、熊本市、八代市、そうして2010年以降は人吉市で色々な仕事、体験をさせて頂いているが、有る意味熊本は北九州の小倉と同様心の故郷のような気でいるので、気になって仕方がない。

 このような状況下で、熊本城の復興にどうやって応援できるか、現在25年間務めた広告代理店の旧友・仕事仲間と一緒に知恵を絞っている。専門家ではないので良くは判らないが、壮大な石垣を含む城郭の復興は現代的な建築様式・工法では出来ないだろう。それが証拠に、昭和35年復元完成された天守閣の瓦と鯱は何処かへすっ飛んでしまったのに比べ、400年前から残っている木造の宇土櫓は鯱も瓦も見事に残っている。

熊本県内在住の大先輩から送って頂いた地元熊本日日新聞記事。

 この辺りを含めて、完全崩壊してしまった重要文化財の北十八間櫓・東十八間櫓、石垣の角石にかろうじて支えられている崩落寸前の飯田丸櫓などの地震前の画像をご紹介したい。

 もちろん地元の方々がもっと素晴らしい画像を撮られているのは判っているが、東京から仕事で出張し、たまに時間が出来た際に見ればこそ感動する美しさ・凄さを収めた画像も何かの意味を持つだろう?
 例えばハワイに住んでいる人がダイアモンドヘッドやノースショアのビッグウエイブの決定的写真を必ずしも撮っていないのと一緒で、たまにしか来られない旅人のほうが「新鮮な気持ちと数少ないチャンスの感動」で撮った写真にはそれなりのモノが在ると思う。

 宇土櫓とその石垣の見事さ!櫓の大きさに比べて何と高い石垣!これで天守閣ではないのだ。普通の城であればこれで立派な天守閣レベルだろう?

 左が唯一現存する当時の木造宇土櫓。右端の続櫓から宇土櫓への緩やかな下り勾配が付けられており戦術的に色々な意味があったと言われている。暗い城内で下りでなおかつ段差を作る事により重い甲冑を着た敵兵が前のめりに躓くように、あるいは味方物見の伝令が1秒でも早く宇土櫓へ情報を伝えられるよう下りにしてあったとか諸説あるようだ。

二の丸公園のある角度から見た3つ重なる櫓群!天下無双。

市民にはおなじみの坪井川沿いの長塀。今回二度の震度7で崩れた。

奉行丸の塀と石垣、先の方の一部が崩壊した。

築城当時から残っていた東十八間櫓と北十八間櫓はこの石垣ごと崩壊。

此の造形美は日本の他のどの城より美しかった。今はもうこの姿は無い。

21世紀に再現なった飯田丸も今や隅一列の石積みでかろうじて残っている。

次に震度6以上が来たら確実に崩壊するだろう。

 武者返しと言われる石垣は色々あるが、最上部で垂直になる熊本城の石垣の場合は補修・再建が非常に難しい。特に上物だけ残り石垣だけ部分的に崩れた場合は相当大掛かりになるだろう。工期費用共に想像がつかない。

 こんなにそそり立った石垣は他に類を見ないし、色々な角度で出来ている事に気が付く。西南の役でも持ちこたえた理由が此処に在るのだろう。近代兵器を持って攻めても中世の城が落ちないのは痛快だ。