なんだか、最近のよろず事に一々イチャモンをつけているクレーム親爺にされたような気分だが、思っていることをそのまま掲載して欲しいと言うご意見もあるので、少し続けてみたい。
日本語が5年周期、最近はもっと早いサイクルでその意味・解釈が変わる事はニュース等で知っての通りだ。
例えば「ヤバイ!」という言葉は、チンピラが街中で法に違反するような事をやっていて、警察官が近づいてきた際に吐く台詞「ヤベー、ポリ公だ!逃げろ」とか、先生から言われた宿題を忘れて登校した高校生が思わず吐く言葉、「ヤバイ、宿題忘れた!」などの使い方が昭和時代からの常識だったろう。
それが、今や若者達の間では「凄いね?良いねー!」といった肯定的な感嘆詞として使われているのだから真逆の意味になっている。例えば「この車超ヤベーじゃん?欲っしいなー!」英語で言えば「So Cool !」に近い意味合いだろう。
一方で霞ヶ関言葉、あるいは官僚言葉としての「評価する」という言葉も昔の本来の使い方ではなくなって久しい。本来、「評価する」には「良い評価」も「悪い評価」もあった。例えば山の斜面を切り開いて道を作った場合、山側も谷側にも崖が出来る。つまりは見上げる崖と見下ろす崖になるわけだ。しかし私が普通の人より遅れて37歳で免許を取った1986年頃の自動車教習所では、山側の崖を「山側」、谷側の崖を「崖側」と教える。こうやって日本語は「官」の解釈都合でその意味を捻じ曲げて通用させてしまう悪癖が在るようだ。
前出の「評価する」も「良い評価を与える」「悪い評価を与える」ではなく、「評価する」「評価しない」として通用させてしまっている。しかしいずれも上から目線の偉そうな物言いで好きになれない。まったく評価に値しない政治家や小役人達が、偉そうに「評価します。」などという使い方をするのは何度聴いても腹が立つ。
話は変わって、「年始の御挨拶を失礼させていただきます。」という葉書が今年も6通届いている。殆ど同級生等からの連絡だが、その亡くなった親の年齢を見て驚くばかりだ。一番若くて91歳。最高は103歳。日本人も本当に長生きになった。しかし筆者の親類の医者達に聞くと今がピークでこの先日本人は、どんどん寿命が短くなる一方だと言う。
何故だか訊いて見たが腑に落ちるような説明は無かった。そこで自分で考えてみた。団塊世代の親と言えば殆どが大正後期生まれか昭和の一桁生まれだ。つまり厳しい戦争を生き延びた世代だ。これは何を意味するかと言うと、食糧事情は最低の時代だったが、体を張って生きた。つまり輸送機関が自転車以外無い為、一般的には歩く事が非常に多かったのだろう。今の世の中のように便利な機械・道具・交通手段が無い為、洗濯・炊事・修理・運搬、全てにおいて人力で行う時期に体が作られたのだろうと想像する。
人間15歳あたりから30歳くらいまでに筋力・耐久力・持久力など、体力の基本が出来上がる。ちょうどその頃戦争のど真ん中に居た団塊世代の親達は、実はちょうどその環境下で頑丈で健康な肉体を造り上げていたのだと想像する。同時に雨霰(アメアラレ)と降り注ぐ焼夷弾や爆弾・機銃掃射の中を逃げ惑い、いつ死ぬか判らぬと言うストレスに連日囲まれて生き抜いただけに、精神的にも強靭なものが備わったのだとも思う。
それに比べると、家電・三種の神器(電気洗濯機・電気冷蔵庫・白黒テレビ)に始まり、3C(カラーテレビ・自動車・クーラー)の時代に育ち盛りを過ごした我々団塊世代は、肉体的にも精神的にも親とは違う為、親達のようには長生き出来ないという運命なのだと思う。
更には医学の発達と共に医薬品も発達した為、薬の毒作用(副作用とも言う)で逆に別の病を発症して寿命が短くなっているとも思うのだ。この辺り当に還暦を過ぎた団塊世代は、今更何をやっても後の祭りなので、車に乗る時間を減らし、どんどん歩く事だろう。
今や東京では車に乗って移動しても、駐車場を探す事が大変だしコストも非常に高いので、皆さん公共機関を使ってどんどん歩いている。1日都心に出て自宅に戻ると1万2千歩は歩いている。あと20年もすると東京の人間の方が地方在住者より寿命が長くなるかもしれない。
取りとめもない話だが、今日の野鳥はこちらへ向かって来るヤマセミ。
いつもとは違う観察ポイントの一つ球磨川支流で無邪気に遊ぶヤマセミに遭遇。
20分程こちらの様子を伺って採餌していたが、いきなり偵察に飛んできたようだ。
岩の間を左右に飛びぬけながら近づいて、頭の上を越えていった。