2014年10月12日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #75.」 1971年1月のある日、目の前にジョン・レノンがドテラを着て座って居た。

 ちょうど英国ホームステイ短期留学1年少し前の1971年1月後半、サッカーの試合と合宿で訪れていた善行のスポーツセンター事務所に電話が掛かってきた。呼ばれて出てみると、甲高い声の安田周三郎教授だった。思わず「先生!単位駄目?落第?」と訊いてしまった。しかし安田さんはそれには全然答えようとはせず、「きみぃ、今すぐアトリエまでこられる?」、今居るところは藤沢の善行だから鎌倉の教授のアトリエまではそう遠くないし、行けない事は無いのだが、しかし又何で?考える暇も無く「きみぃ、ジョン君が来ているんだが、ヨーコが用事で居ないんだよ!困っているんだが来てくれない?」という事だった。すぐにこう答えた。「ジョン君?って、先生僕に外人の友達は居ないんですが、誰でしょう?」 これに対して「ジョン君だよ、ほらあのビートルズのジョン君だよ!」と言う。
 一体何を言っているんだこの人は?と思いつつ「先生、大丈夫ですか?良く判らないのですが何故ビートルズのジョン・レノンが其処に居るんですか?」と重ねて訊いた。
横国の最初の授業でこのシルクホテル(1969年当時)に設置された安田教授のこの彫像を「湯上りの女?」と訊いて「キミィ!失礼じゃないか!」と怒られてしまった。

ちょうど大学入学時に設置された意味でも安田教授とは縁が深い。ハイカラな教授だった。

 要は、ジョン・レノンが小野ヨーコさんと日本に来た最初の頃で、小野ヨーコさんの親戚で叔父に当る安田周三郎教授のアトリエに来て居たらしい。ジョン・レノンはその昔リバプール美術大学に行っていたし、小野ヨーコさんも忙しい芸術家だったから彫刻家の安田先生のアトリエに来て居たというのが真相らしい。しかし、当時小野ヨーコさんの存在自体を知らない筆者は、一体何が起こっているのかまるで理解できなかった。大体ビートルが解散したと言うショッキングなニュースを聞いて、まだ間もなかった頃の話だから脳みその中が大混乱を起こしていた。これが本当の事だと理解するまでに更に10分以上掛かったと記憶している。何か胸の中から胃液のようなものが逆流してくるような、生唾が出てくるような、妙な肉体反応を感じたのを覚えている。

 1月の氷雨は辛いのだが、藤沢・善行からスポーツセンターの自転車を借りてサッカースパイクにジャージの上下、上から半透明の雨合羽を羽織って全力でペダルを漕いだ。田舎の高校生がクラブの集合時間に遅れそうになって先輩に怒られるのを覚悟で走っている・・・そんな感じに見えたに違いない。

 安田さんのアトリエと言うかお住まいは鎌倉の雪ノ下にあった。横浜国立大学の付属小学校の傍だった、と言うより鶴岡八幡宮の傍と言ったほうが判り易い。善行からは藤沢駅の北側を抜け、深沢から佐助のトンネルを抜けて西側から雪ノ下に入った。以前二度ほどお邪魔していたので場所はすぐに判ったが、初めての人ではまず判らないだろう。

 玄関から呼び鈴を押すと先生が出てきて「すぐにシャワーを浴びなさい」と言ってくれた。その頃シャワーなどを備えた風呂場はそうそう無い時代だったが、先生のお宅はいろいろな物が洋風だった。雨でグズグズのジャージとスパイクを脱いで、シャワーを浴びて出された浴衣に着替えた。で、炬燵のある部屋に通されたら、その炬燵に揉み上げからひげに繋がった髪の長い外人が着物と言うか、ドテラを来て座っていた。それがジョン・レノンだった。

 「ハロー?」と声を掛けてくれたのはジョンのほうだった。安田さんが何か横で一生懸命筆者とジョン双方に向かって説明というか話しかけていたが、何を言っていたのかまったく記憶が無い。筆者はただ黙ってじーっとジョンの目を見ていた。同時に一体何をどうすれば良いんだ?ということだけで頭の中が一杯になっていた。

大体外人と差しで向かい合うなんて、ベトナム帰休兵と新宿の押し寿司屋「箱寿司」で相席になって以来のことだった。この時の米兵はほんの数日前までベトコンと対峙し、いつ殺られるか恐怖と戦っていた直後だったのだろう、人間の眼をしていなかった。猛禽類や動物園の猛獣の眼に近かった。それでも片言の英語で30分ほど付き合っていろいろな話をした。学生だと言うと何が得意だと訊くから、Geography (地理・地学)だとジオグラフィーと言ったら怪訝な顔をされた。で、スペルを書いたら「オー、ジャイオグラフィー」と言われてしまった。その後その帰休兵がどうなったか知らない、又戦場に戻って死んでしまったか、母国へ戻って今アメリカの団塊世代群になっているかも知れない。この経験は自分にとってベトナム戦争が一番近かった瞬間だろう。

話が飛んでしまった。ジョンに戻ろう。

安田さんが、筆者よりははるかに流暢な英語で話をしたので、ジョンも少し筆者のことが判ったのだろう。自分の教えている学生だとか、サッカー部だとか高校の時にビートルズのコピーバンドをやって文化祭で非常に受けた話だの、ギターアンプを真空管で自作した話をしたらしい。だんだん笑顔が出てくるようになった。

ここでアイディアが閃いた。ジョンはリバプール美術大学で学んだと聞いた。であれば絵を描くのは嫌いじゃなかろう。では色々なモノを絵に描いてお互いの国の概念を比べ合おうと思ったのだ。 後で考えるとこれは大成功だった。安田さんに模造紙のような大きな紙は無いかと訊くと、こう返ってきた。「きみぃ!僕はアーティストだよ?作品を包む大きな紙ぐらいいくらでも持っているよ。」真っ白ではなく茶色だったけれどとにかく広い紙は在った。

そこで、まず「ジョン!イギリスじゃ「ウンコ」はどう描くの?日本じゃこうやって描くんだよ。」ととぐろを巻いた「ウンコ」を描いた。これを視たジョン・レノンの目の輝きは忘れられない。この先の事は詳しく触れない。

1969年から1973年までの4年間、横浜国大在学中、筆者は武蔵野の三鷹から横浜の南太田まで毎日電車を乗り継いで往復していた。勿論、授業にまじめに出ていたからではない。1969年は美術家の自主授業を始めた責任感から、1970年以降は体育会サッカー部でレギュラーポジションを他の部員に奪われないためだった。この間毎日往復4時間通学に費やしていた。つまり1日4時間×週6日=24時間=1日、1年51週間で計51日間、4年間で51日×4年=204日間通学に費やしていた訳だ。まだ世の中にはウォークマンのような携帯型音楽端末は生まれていないので、今のようにiPodにMonsterCableのBeatsイヤホンを付けて、流行のビージーズやギルバート・オサリバン、Ground Funk、C・C・Rなどを聴く訳には行かなかった。

何が言いたいのかと言うと、この大学4年間はそれまで青春時代の頭の中の半分を満たしていた「音楽・ヒット曲」が入って来ていないのだ。通学に時間を取られてしまい、往復の電車内は慢性の睡眠不足でほぼ寝ている状態だったから、音楽に割く余裕が無かったのだ。せいぜい聴けたのが就寝前のFM東海・ジェットストリームくらいなものだった。したがって解散前後のビートルズの動向、音楽、各4人のニュース等はほぼまったく知らなかったし、興味も無かった。だからこそチラッ、チラッとメディアが騒いでいたジョン・レノンの反戦メッセージ「話題の行動」と、魔法使いのように寄り添う小野ヨーコさんの存在も理解している暇は無かった。

自分にとってのビートルズは、あくまで1964年の1月頃初めて聴いて脳天を殴られた「Please Please Me」であり、リッケンバッカーやグレッチのセミアコ・ギターだった。LP・アルバムで言えばHELPくらいまでが夢中になった時代で、その後の名を成してからの「綺麗な楽曲」の時代以降はのめり込んで聴いていた訳ではなかった。勿論他のミュージシャンよりは多く聴いてはいたのだが・・・。

だから後年になって、初期の未発売曲が海賊盤で売られ始めた頃は、狂ったように買い漁った。
そんな訳だから、メディアに詳しく載ったジョン・レノンの行動や発信や、ビートルズ事情通の解説文などに書かれている内容などは、まったくと言ってよいほど知らなかったし今も知らない。ただ、映画の中、レコードの中から自分が得たビートルズのジョン・レノンの生が目の前に居て、時々片言の英語で喋る程度で、ただ二人で黙々と色々なモノを絵に描く筆記用具の紙を滑る音がするだけだった。

勿論、ジョンの性格も癖も習慣も知らないので深くは話せない、大体こちらの英語はまだ英国留学以前のことだったし、喋ったつもりでも「陽上る、助け来ない、お前死ぬ・・・。」といったローン・レンジャーに出てくるトントのようなレベルに近かったので、深い話も出来なかった。したがって、知ったような事をこのブログで書ける訳も無い。詳しい描写も自分なりのジョン・レノン像などもたった1時間前後のミーティングだけではとても書けない。
ウンコの絵に始まり、鶏・豚・牛、サラリーマン、船、電車、車、侍、ちょん髷、刀、日常の色々なモノを描きまくったが、宗教的なものは一切描かなかった。しかし神社の鳥居や鎌倉の大仏のようなものは結構描きあった。
ひとつだけ神社の鳥居ゲートは何故赤いのだ?そして何故両端が反っているのだ?と訊かれたが判らないので答えられなかった。たぶん鶴岡八幡宮の赤い鳥居を見てそう訊いたのかもしれない。ただ九段の靖国神社の大きな鳥居は赤くないし、両端は反っていないと答えたら、今度観に行くとは言っていた。本当に行ったかどうかは知らない。
我が家の二階への階段の上には、1980年からずっとニューズウィークのジョン・レノン追悼特集の号のポスターが飾ってある。

散々、色々な絵を描いた後、雨も上がったので合宿所に戻らねば成らないと、安田さんのアトリエを去る事になった。で、玄関まで出てきたジョンに是非又この週末に来いと言われ、有頂天になって「オーライ」と答えた。週末の連絡を安田さんからもらう約束をして善行まで又上り坂を自転車で戻ったのだった。西の空には雨上がりの青い空が見えていた。

これが、ジョン・レノンに遭遇した一部始終だが、詳しい描写や背景や解説・説明はこれ以上できない。これ以上の記憶が無いのだ。後になって考えれば、一緒に描いた大きな紙をもらって来ればよかったと思ったが、その時点ではまったくそういう発想は無かった。何故ならば、又来いと言われて勿論また逢えると思っているし、また同じ絵の続きをしようと思っていたのでその紙を持って帰る考えはまったく沸かなかったのだ。ずーっと後年、大宮にジョン・レノン・ミュージアムにひょっとして展示してあるかな?と観に行ったが無かった。

それっきり安田さんからも連絡が無く、少しして大学の教室で「あー、ヨーコ達は帰ったよ。あの時は有難う、ジョン君はあの後いつまでもあの話をしてた。」と聞かされて、とても良い気分になった。

この経験が凄い事だったのだと思うようになったのは、1980年にラジオから流れてくるFEN(米軍の英語放送)の朝7時の定時のニュースでジョンがニューヨークで撃たれて死んだ事を知った時だった。
翌日の英字新聞を購入してとってある。

 その英語のFENニュースが耳に入ってきたのは、口に朝のトーストを咥えてキッチンで立って窓の外の畑の景色を観ている時だった。短いフレーズだった。「John Lennon dead」の部分だけ鋭く耳に入ってきて、一瞬、えっ?と思った。「耳を疑う」と言う言葉はこの時の為に有ると思った。  その後のアナウンサーの英語は大体理解できた。本当の事だと理解するにつれてトーストを咥えたまま立ちすくみ、自然と涙が溢れて来たのを忘れられない。その日、生まれて初めて病気ではない理由で会社を休んだ。その日12月8日は筆者の誕生日だった。