2014年10月11日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #74.」 1972年春休み、英国旅行始末記 その6.帰国の羽田税関で身体検査。

 ロンドンからパリへ空路で入り、パリ・東駅からスイス・ジュネーヴへ入った。ジュネーヴには1996年FIS(国際スキー連盟)のフランス・アヌシーでの年次会議で立ち寄ったが、街並みは殆ど変わっていなかった。ただ走っている車が様変わりしているだけだった。その後アルプスを越えてイタリアのローマまで列車の旅だった。イタリアに入ってからの列車の車掌が小うるさくて、あれやこれや判らないイタリア語でまくし立てるので、穴の開いた日本の50円玉硬貨を上げたら、いきなりにっこり!「世の中全てこれ金次第!」が世界共通の格言である事を身をもって覚えた。
ローマへの列車の車掌、穴の開いた50円玉で大喜び、サービスが変わった。

 それ以外の話は誰もが書ける単なる旅行中の日記のようになるので省こう。途中経過の画像だけ掲載してお茶を濁そうと思う。英国でも帰国途中の各国でも数々の撮影をしている。この頃から写真撮影に関してはやはり惹かれる何かがあったのだろう。しかしまさか40年後に野鳥の生態観察撮影をして、写真集を自費出版するとはまったく想像だにしていない。
ロンドンの2階建てバスの車庫で撮影。

1972年雨のロンドン英国のイメージ撮り。

雨のリージェント・ストリート、まだBOACのオフィスがある。

ポーツマスまで観に行ったHOLLIESのチラシポスター。

誰も居ないルーブルの片隅で、疲れて寄りかかった石造の腰の部分に見覚えがあったので、前に回って見上げたらミロのビーナスだった。1964年に上野の美術館に来た時の大騒ぎが、ウソのようなたたずまいだった。

モナリザが掛かっている部屋で模写中の人。ルーブル美術館・・と言うか海外の美術館は当時から撮影OKだった。日本は何故未だに禁止なのだ?そういう点で後進国だと思う。

ジュネーブのレマン湖で。この40年後再び来るとはこの時思わなかった。

バチカンのサン・ピエトロ時院内で。別に神のお告げは何も無かった。

いよいよローマを後に、という事はヨーロッパを後にするローマの空港で生まれて初めてエスプレッソという珈琲をスタンドで飲んだ。びっくり仰天・有頂天!飯田久彦の歌ったルイジアナ・ママの歌詞じゃあないが、まあ驚いたの何の!美味しいじゃない?こんな飲み物が世界に有ったなんて!立て続けに2杯飲んでしまった。おかげでこの後、暫く離陸した機内でドバイまでの間眠れなかったのは言うまでもない。
 この素晴らしいエスプレッソを次に飲めたのは、翌年青山のVAN宣伝部に入社して99Hallのエスプレッソ・カフェのカウンターだった。この青山VAN99HAllという石津謙介社長のプロデュース作品の傑作中の傑作は、当時はもとよりその後の日本における文化風俗に多大な影響を与えた情報発信BOXだった。この辺りの話はもうすぐだからお待ち願いたい。VANのお客様だった方々には堪らない面白いネタで埋め尽くそうと思っている。乞うご期待!
港区北青山三丁目5-6のVan99Hall

カフェ・エスプレッソで99円でエスプレッソが飲めた。超洒落たスタンドだった。

 ドバイまではアリタリヤ航空の便だったが、ドバイで日航のジャンボヨーロッパ南回り線就航第1号機に機乗した。その後、タイのバンコクでトランジットして香港までフライト。そこで再びリアエンジンの旅客機に乗り換えて羽田に到着した。
 香港ではまだ古い国際空港だったので街中を高度を下げて着陸した。その際、窓からアパートの各家々が皆見えた。着陸して気が付いたら翼の先に洗濯物のブラジャーが引っかかっていたと思えるほどのものすごい場所だった。

 で、羽田の空港で税関審査になったときに事件は起こった。

何処からですか?と聞く税関職員に「ヨーロッパ」と答え、パスポートを渡したと同時に開けたトランクを物色していたもう一人の係員が「これはまずいなー」と取り上げたのがロンドンの泥棒市で買い求めたアラブ風の飾りナイフだった。勿論外側の湾曲したフォルムと飾りの金属が面白いので買ったに過ぎず、中身は切れないただの10cmほどの金属の板が入っているだけの代物で、いわゆる映画でアリババや盗賊団などが腰に下げているようなアレだ。何度も言うが、何も切れない。
法的に刃渡りうんぬんを言うのなら、機内からくすねてきたBOACの機内食用の食器セットのステンレスナイフのほうが遥かに長いと思うが、そちらに関してはお咎めなど一切無かった。
 審査員が「大学生?」と訊くので「横浜国大」と言った途端手を上げて大きな声で「別室審査!」と言われてしまった。「なんだなんだ?」と言うまもなく荷物ごと別室へ連れて行かれ、パンツ1枚にされ4名の係官が全てのモノを調べ始めた。 もう飾り物のナイフの件などどうでも良い感じだった。「横浜国大生」と言うだけで調べられている感じだった。

 後で知ったのだが、ドーバー海峡で15歳の女子とボートごと流されている頃、日本国内では赤軍派と京浜安保共闘なる過激派の内ゲバで大量殺人があり、その中心的人間に横浜国大生がいたと云う事から官憲から横浜国大生は目の敵にされていたようだった。そうとは知らず気楽な観光客はノーテンキに海外から帰ってきた訳だ。

 1時間ほど事情を訊かれ、すぐに返してくれたが、税関から出て外で待っていた小池以下数名は、一時本気で筆者が渡英前何らかの過激派に関係有ったのではないか?実はこの短期留学ツアーに参加したのも、何かやらかして追われたので高飛びをして国外に身を隠したのではないかなど、勝手に想像キノコを膨らませていたようだ。
税関は今でも通る時トラウマがよみがえるので嫌いだ。

 最後に面倒くさい別室取調べなどというオマケが付いてしまったが、人生初の33日間海外渡航はこうして無事に終わり、南回りのせいか、その後仕事などで何度も行ったヨーロッパ帰りほどの時差ぼけも無いまま、翌日には大学のサッカー部の春休み合宿へ合流するのだった。
 サッカー合宿の場所は藤沢・善行の神奈川県・藤沢スポーツセンターだった。Googleマップで視ると現在も相当大きなスポーツ施設として神奈川県体育センターという名になっている。
 この1972年の春先日本は雨模様が多かった。この合宿の時も晴天はほとんど無く、曇天の連続だった。既にフォワードのレギュラーは新しい3年生以下に譲って、半分リタイヤしたようなものだから合宿3日目辺りで既に余裕しゃくしゃくで居た。4日目辺りだったろうか、小雨のグラウンドに居た時事務室からグラウンドのラウドスピーカーを通じて辺り一帯に鳴り響く声で「横浜国立大学サッカー部のシンジョーさん!至急事務室においでください。安田教授から電話です!」という呼び出しが流れた。

 一体なんだろう?とりあえず事務所まで駆けて行った。彫塑の単位くれないのかな?とちょうど1年前の1月同じような状況で安田さんのアトリエに急いだ日を思い出しながら事務室に走った。1年ほど前のやはり小雨の日、生涯で最高の出逢いがこの安田教授のアトリエであったのだ。