2014年4月19日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #33」 1964年都立広尾高校入学の頃ビートルズ-2。

 高校が中学校と大きく違う所は勿論通学時の靴が革靴になっただけでは無い。こういった生活環境その他の話はこの先おいおいゆっくりするとして、まずはBEATLES関連のムーブメントが自分にどのような影響を与えたかと云う辺りから詳しく行ってみたい。

 4月に入学するとほぼ同時に日本でもBeatlesの爆発的なブームが始まった。国内のメディアではラジオのヒットパレードで上位にどんどんビートルズの曲がランクインしていった。銀座の森永キャンディ・ストア提供DJ高崎一郎による「キャンデー・ベスト・ヒットパレード」や小島正雄の「9500万人のポピュラーリクエスト」、その他ラジオ関西がキー局だったらしい「電話リクエスト」も東京で文化放送か何処かの曲が流していて番組スタジオのアナウンサーの声の後ろで沢山電話の着信音が鳴っていたのを覚えている。まだテレホンカードも無く街頭の電話ボックスがあちこちに在った時代だから、夕方に成ると放送局にリクエストを掛ける若者で街角の電話ボックス前には順番待ちの人の列が出来た事だろう。今では考えられない光景だったと思う。

 4月に入ったと同時にこれらのリクエストによる洋楽ポップスのランキング番組の内容はビートルズの出現に影響を受けて大きく様変わりしようとしていた。コニー・フランシス、リッキー・ネルソン、ニール・セダカといったポップ・シンガーからフォー・シーズンス、ロネッツ、シフォンズ、エクサイターズなどボーカル・グループにシフトし始めていたのと同時に、「アパッチ」で有名な英国クリフ・リチャードのバックバンド、シャドウズ、アメリカのベンチャーズ、アストロノウツなど楽器だけで演奏するインストルメンタル・バンドが台頭して来ていた。その中で一躍赤丸急上昇したのがビートルズを中心とした英国のボーカル・グループだった。その変わった髪型マッシュルームカット、今まで視た事が無かったセミアコースティック・エレキギターなど「見た目」「カッコよさ」からもアピール力は満点だった。2~3年遅れて始まる日本のグループサウンドと呼ばれた一群が、殆どがこれらリバプール・サウンドの真似から始まっている事は承知の通りだ。
1962年頃まではソロ・シンガーがヒットパレードの中心だった。

1963年辺りからPOPグループが急激に増えてくる。

特に女性POPグループは現在でもコレクターズ・アイテムに成るほどの人気だった。

1964年のビートルズ出現をきっかけにリバプールサウンドが急速に台頭して来た。
※以上全て自分のコレクション

 日本の雑誌などもこぞってビートルズや英国リバプール・サウンドと称してこれらを一纏めにして特集し、今や英国出身のバンドでなければ・・・とでもいう勢いで報道した。我々高校生もこぞってラジオを聴き、レコードを買って、これらの雑誌を読み漁ったのを覚えている。その様な中でビートルズの特集、彼らのモットー、生活信条等を紹介した記事などが有り、あらゆる面で真似をしようとした者は私以外にも沢山居たのではないだろうか?その中で今でも変わらずその通りにしている事が幾つかある。たとえば「自分の事は自分で行う」、「自分たちの演奏する曲はなるべく自分たちで造る」「楽器のチューニングは必ず自分で行う・・・」などだ。
 大切な事は決して他人任せにせず自分で行い、自分で確認する・・・一見当たり前の様なことだが高校入学時にこれを親や先生に教わったのではなくビートルズたちの生活信条を真似る事で覚えたのは大きかった。

 銀座の洋書専門店イエナでビートルズ関連の雑誌や単行本を買い漁ったのもごく自然な成り行きだったし、神田の古本屋街の厳喜堂ブックブラザーにビートルズ関連の古本を捜しに行ったのも懐かしい。そんな中に明らかに日本のビートルズ特集本がパクッた内容のオリジナルが在ったので買い求めた。画像で紹介しよう。
オレゴン州のポートランドで1998年購入

当時の復刻版英国のNew Musical Express紙

Beatles紹介特集にあった個人個人の特集。日本の雑誌が翻訳して掲載していた。

 日本のファンはアッという間にファンクラブを造り、星加ルミ子編集長が引っ張る雑誌「ミュージックライフ」がその後1965年からビートルズ解散まで詳細にビートルズニュースを流し続けた。前回最後に記したとおり、曲も聴いて夢中になると同時に1964年7月に封切られた最初のセミ・ドキュメンタリー映画「ビートルズがやってくるヤア・ヤア・ヤア」の出現で「動く・唄う・ビートルズ」に映像でノックアウトされ「これは、ワシらもバンドをやらにゃいかん、いつやるの?今でしょ!」とワクワクする期待で頭の中が一杯になってしまった。
ごく初期の映画ポスター

海外の映画パンフレット

 この辺りは1歳年下だが香川県出身で同じく高校生時代にバンドに夢中になった、作家芦原すなおの1991年直木賞小説「青春デンデケデケデケ」でも「神の啓示をうけた」と有るように、電気的ショックに近いモノだった。香川でバンドを始めた芦原すなおと大きく異なる点はその演奏曲目だった。我々のバンドには日本の青春歌謡曲三田明の「美しい十代」の類だけは一曲も無かった。
 
 もちろん当初はメンバーを集めるのと自分達の楽器演奏スキルのあまりのレベルの低さと本物のビートルズとの差に幾度も挫折しそうにも成った。しかし、芦原すなおの小説にも出てくるギターの天才白井君の様な救世主が広尾高校にも居た、同じクラスで名前を宮田信雄と言った。彼は軽音楽クラブに所属しフォークソングやジャズ系のギターを天才的に上手く弾いていた。更には沖縄から来ていた宮城宥はギターが上手だった。ドラムは楽器付で少し気難し屋の加藤博が居た。気が付くとメンバーはそんなに苦労しなくてもクラスの中に居た訳だ。

 後は楽器だ。ビートルズが使っている本物などその当時の日本では誰も生で観た事が無かったし、もちろん売っても居なかったろう。とにかくエレキを手に入れなきゃ話に成らない。其処で夏休みにアルバイトをしてエレキを買う事にした。南麻布の「芝造園」と云う所のアルバイト土方をやった。理由は肉体労働でキツイが他のバイトの2.5倍の日当を貰えたからだった。郊外の金持ちの庭づくりや皇居の中の草取りなどをやらされた。金持ちの庭づくりは車に乗って東急田園都市線の沿線に行った。溝の口を越えてまだ火の見櫓が立っている川崎街道をどんどん西に進み、宮崎台だの宮前平など駅の周りがまだ造成中の何もない中を銀色の四角い電車が走る沿線だった。
 
 余談だが、最近40年振り以上にこのエリアに行ってみて、そのあまりの変貌ぶりに「浦島太郎」の話が良く判るような気がした。頭を使わなくても良い土方(ドカチンとも言った)の仕事は結構単純だった。親方中心で絶対服従のチーム生活は広尾高校のバレーボール部の延長と思えば何の苦も感じなかったし、要は全てお金の為に我慢すれば済む話だから皆勤賞モノで仕事に励んだ。

 皇居にも頻繁に出かけて造園の仕事をしたが、一度とんでもない経験をさせて頂いた。ある日6名ほどで地道の草取りをしていて親方が「おい!仕事止めて並べ」と云うので麦わら帽をかぶったまま軍手のまま木陰に並んだ。其処に帽子をかぶって軍手をした人が近寄ってきて「何をしているの?」と訊いたのだ。なんとその方は昭和天皇陛下だった。思わず「はいっ、雑草を取っています!」と答えてしまった。その瞬間、優しそうな目でこちらを視てこうおっしゃった。「あのね、植物にはどのようなものでも全て名前が有るの、雑草と云う植物は有りません。」 昭和天皇が生物学者であったことをその瞬間思いだして「しまったー!」とは思ったが、何だか強いオーラが出ている雲の上のお方の前では余裕など全くなかった。

 5年ほど前、小倉の大通りで遠くから新聞社が配った紙の日の丸を振って天皇陛下の車の行列をお迎えした事しかなかったので、緊張しまくりだったのは今でも覚えている。天皇陛下が去られたあと親方から怒られたが、「しかし、オメー良く言葉が出たな?オイラなんか驚いて固まっちまったよ。」と言っていた。 帰りにいつも「敷島」という吸い口を潰して喫わなきゃいけない太めの煙草を貰えたのが誇らしげだった。しかし、ただ一度も美味しいと思ったことは無かった。