2014年4月12日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い #31」 1964年都立広尾高校入学の頃

 1964年という年は団塊世代の人間たちにとって非常に印象深い年だったろうと思う。もちろん東京オリンピック開催の年だったし、それに向けて準備してきた新しい日本の姿が具体的な形、建造物やシステムがスタートした年だったので余計強く脳裏に刻まれているモノと思う。少し硬い書き方になったが、要は新幹線や首都高速道路の開通・開業を筆頭に超高層ビル(霞が関ビル)の建設が始まったり、液体リキッドスタイルの男性整髪料が登場したり、平凡パンチなどの新しい日本文化をリードするメディアがスタートした年だったという事だ。忘れてはならないのが東京青山のVANを筆頭に、JUN、エドワーズといったメンズファッションの世界が大きく変革した年だという事。まずは形から日本という国が欧米並みになろうとし始めたころだった。
開通した東海道新幹線、0型の初期バージョン。

大橋歩さんのイラストで一世風靡した平凡パンチ。

  桜がまだ散らずに、満開の頃、4月1日辺りに入学式が有った。見ず知らずの新しい世界に飛び込むのだから当然最初の登校は知った顔同士、つまり奥沢中学校から広尾高校に進学した者が恵比寿の駅に集まって、揃って登校した。今の軟弱な大学生達とは異なって保護者というか親が付いてくるなどという事は有り得なかった。思えば時代は変わったものだ、大学入試に親が付いて来る?一体何故だろう?

 広尾高校は恵比寿の駅からも渋谷の駅からもちょうど中間地点にあった。どちらも歩いて12分程度だが行きは恵比寿から帰りは盛り場の渋谷へ出るものが多かったように思う。1964年の春、朝8時恵比寿からの狭い住宅街を抜ける通学路、両側の民家から流れてくるNHK連続テレビ小説「うず潮」のテーマソングを聴きながらだらだら上り坂を上って行った。これが翌年は笠智衆が主役級の「たまゆら」になり、3年生の1966年には爆発的人気になった「おはなはん」になった。

 まだ当時は高層ビルや高層マンションは無く、国鉄山手線沿いの公団アパートが最も高いビルだったような気がする。渋谷の若木台と呼ばれた丘の上に存在した広尾高校は見晴らしがよかった。授業中窓の外を黄色い山手線が走っていくのが良く見えた。今は学校に行って屋上から四方を見回しても自分がどこにいるのかまるで判らない。

 この頃、こうやって高校に通った全国の団塊世代は今、NHKEテレの「団塊スタイル」を熱心に見ているのではないだろうか?こういった団塊世代が群れを成して学校に通っている頃、大東京を中心に日本の新しい時代が幕を開けていた。高校生と中学生が一番違う所は何処であるかご存じだろうか?あるいは覚えているだろうか?答えは通学の靴だ。中学生の通学靴はズック靴だが、高校生になるとこれが皮靴に替わる。この変化こそ自分が大人の仲間入りになった気分を一番自覚するムズガユイ感覚だったのではないだろうか?自分の革靴は熊本の大洋デパートで母親と共に購入した。真っ黒なプレーントウのがっちりとした奴だった。

 これ以降、靴はがっちりタイプ、メーカーでいえば日本ならリーガル、英国ならGrenson’s(グレンソン)、ここ15年は登山靴を制作しているHERMI(製造中止)を愛用しているが同じものをたくさん持っている。底を張り替えながら履き続けている。靴は有る程度重たい方が長く歩ける。
英国Grenson'sのプレーントウ

余談になるが、広尾高校時代クラスメート6名で夏の夜新宿駅西口から奥多摩の小河内ダムを目指したことが有った。真夜中高校生が縦一列になって青梅街道をひたすら山を目指したわけだ。途中で2回ほど警察官に職務質問された。話の重要な事はそう云う所ではなく、メンバー6名がそれぞれ色々な靴で参加したことの結果が意外なものであったことを言いたいのだ。
まず最初に運動靴(ズック靴)を履いて居た者がリタイヤした。足の裏側全体が真っ白な水ぶくれになっていた。次に革製の通学靴で参加したものがリタイヤした。その次に自分ともう一人厚底の重たいバスケットシューズを履いて居た者が動けなくなった。これは足の裏のトラブルではなく小さなマメと肉体疲労だった。最後まで行けたのはキャラバンシューズ(=軽登山靴)を履いた山歩きの経験が豊富な者2名だけだった。

これで、判ったことは登山靴系がそれなりに長距離を歩くためにきちんと考えられて造られているという事と、歩くことに関しては場数を踏んだ経験がある程度重要な要素である事だった。
50分間歩いて10分休むことの繰り返しだったが、スタミナには自信があった自分も徹夜という事に非常に弱いのを知らされたのもこの時だった。青梅を越えて奥多摩街道に入り青梅線の鉄路に沿って山を登るころには何度幻覚を見たか判らない。鳩ノ巣の駅から電車に乗って奥多摩駅まで行き、小河内ダムを見て立川駅行きのバスに乗った途端爆睡であとは全然何も覚えていなかった。
靴の話が小河内ダムまで飛んでしまったが、重たい靴を重用する理由を少しでも判って頂ければ幸いだ。こういう経験もあって英国に出張その他で行った際はGrenson’s の重たい靴を良く買って帰った。

高校に通い始めて1か月も経たないうちに、高校生男子の三種の神器なるものが流行りはじめた。バイタリス、もしくはMG5といった液体整髪料がその一つ。平凡パンチ、もしくはメンズクラブといった女性のヌード写真が掲載されている男性ファッション雑誌。最後がVANリーガルなど、VANというアルファベット3文字の入ったファッション製品。一部ではこのVANという黒・赤・黒のブランド名文字が入った明るい茶色の紙袋を持って銀座のみゆき通りを意味もなく往復してたむろする「みゆき族」なるものが異常発生した。もう少し大人で危ない連中は六本木族と言って六本木界隈に出没していた。巷の噂では六本木族は多少英語の心得があるという触れ込みだった。
アイビーファッションのバイブル、婦人画報社から出ていたメンズクラブ、裏表紙はVANのロゴだけという当時としては画期的な広告だった。右端はアイビーファッション女性版のMCシスター。

VANの織りネーム・タグ

 銀座のみゆき族のメッカは晴海通りにある帝人メンズショップやその2階にあったスナック喫茶VANだったろうか?ここのブックマッチは完全に真っ赤な下地に白・黒・白でVANと印刷されていた。煙草も吸わないのに20個も集めたことが有った。雑誌メンズクラブの裏表紙、ちょっと専門的に言えば表4広告面も全面真っ赤に白・黒・白でVANと入っていたりしたものだった。
当時のみゆき族の記事 Yahooフリー画像より

みゆき族 Yahooフリー画像より

まだ今でも持っているが、このVANの紙袋とバイタリス、MG5の匂いが高校生になりたての頃の強烈な思い出になっている。この紙袋の配布元の青山のVANヂャケット宣伝部に8年後自分が就職するなど、その頃は夢にも思っていなかった