2014年4月8日火曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #29.」 1963年の奥沢中学校在学中に起きた色々な事件。

 当時の東京都もしくは世田谷区は理科・科学の分野で面白い試みを行っていて、世田谷区内の各学校から理科に関して得意な者を選抜し学校代表として毎週土曜日に玉川中学校に集め、科学に関するいろいろな英才教育を行っていた。

 何故か生物部に所属していたからか、自分もこのメンバーに選ばれ、隔週土曜日だか月に一度だか通ったのを覚えている。

 大井町線(当時)の等々力駅からテクテク長い道のりを歩いた記憶がある。今その道は車を運転していても片側1車線の狭く感じる用賀中町通りだが、当時はまだ宅地造成も完成していないセスナ機なら降りられそうな相当広い郊外のイメージのエリアだった。

 とにかく広い道で周りにはまだ殆ど何もなく、等々力の駅から距離にして1km約15分の道のりだったが、やたら長く感じたのを覚えている。一度など帰りの途中で夕立土砂降りに遭って全員ずぶ濡れになった記憶がある。
現在も同じ場所だと思うが、周りの景色は浦島太郎状態だ。Yahoo画像

 この時に観た総天然色カラー岩波教育映画で「ミツバチの不思議な行動」が深く印象に残っている。
 ミツバチは蜜のある場所を探して巣に戻ると仲間に対して8の字を描いてその太陽との角度で蜜のある方向、8の字の大きさでその距離を教えているという内容だった。

 こういう動植物に関する情報は学校の理科の授業では教えてもらえないので、非常に魅かれたのを覚えている。いつかこういう動物の生活を自分でも観察して人に教えてあげたいと思ったのだろうか?それが今のヤマセミの生態観察へののめり込みに繋がっているのかもしれない。いや、これは最近冗談ではなくマジにそう考え始めている。
ミツバチのコミュニケーション図 Yahoo画像


 この特別教育の最終回で各参加者が何らかの研究発表を行うという事に成っていた。

 奥沢中学から行ったメンバーで例のラジオ族のメンバーは、真空管のカソードの電圧を上げると何がどうなるか・・とか何とか訳の判らない発表を行っていたのを記憶している。

 オシロスコープと5球スーパーラジオが有れば出来るような内容だろうと勝手に想像していた。

 こちらはと云うと、その頃夏に成ると増えてきていた洗足池のアオコを研究しようと1人で「洗足池のアオコが増える理由」と云う事で、洗足池のプランクトンを採集して顕微鏡で観察してどんなものが居るかすべて絵に描いての発表を行った。
洗足池、あの勝海舟の夫婦の墓がある。

 まだ中学生のレベルではアオコの異常発生がその後環境問題になるだの、アオコ公害予防などまでは発想できず、動物系のプランクトンと植物系のプランクトンが居るという種類の羅列だけで終わった。

 しかし研究発表の最期に「この中のどれかが異常に発生しても、人間生活に影響が出ると思われる」とSF小説を読みすぎたのか当てずっぽうでいい加減な事を書いた。

 それが妙に指導者に気に入られたのか、その後実際に洗足池のアオコの異常発生と繋がったらしく(実は都が保健所と一緒に調査中だったらしい)結構大きな賞を貰った記憶がある。
プランクトン画像例 Yahoo画像

プランクトン画像例 Yahoo画像

 しかし、最高のグランプリを獲ったのは八幡中学校のグループで、「ネムの木」やマメ科の「眠り草」が何故刺激を受けると葉を閉じたり開いたりするかの研究発表を行った。

 その原因が葉の付け根にあるヨウチンという部分に在るという内容だったのを覚えている。当時は優れたやつらが居るモノだと感心して聞いていたが、どうせ中学の先生が指導したのだろうと今に成って思う次第だ。

 こちらは完全に一人での研究だし、発表内容をまとめて奥中の理科の先生に見せても「フーン、色々居るんだ!」と言われただけだった。どちらかというと研究発表より、一人でもより多く上位の都立高校合格者を出す方に先生達は熱心だったのだろうか。

 奥中時代には大きな国鉄事故が2件もあった。1件は1962年転校して直ぐの頃、常磐線三河島駅構内で列車脱線の大事故が在った。
 その翌年3年生の11月9日(土)には横須賀選鶴見駅附近でこれまた国鉄の大事故が起きている。
 両方とも発生時刻が夜の9時37分と9時40分と云うたった3分間の違いで起きているので良く覚えていた。

 鶴見事故現場は世田谷の東玉川からそう離れていないので、夜だったが自転車を飛ばして観に行った。しかし、其れこそ非常線が張られていて関係者以外は傍まで行けなかった。
 灯光器の光が無数にあってあちこち動くのと、やたらトラックが出入りしていたのを記憶している。
 それでも住宅街の路地をかいくぐって何とか傍まで行ったのだが、鉄や電気器具の焦げるような匂いと、もの凄い血の匂い、自分の鼻血や擦り傷の跡のかさぶたを剥いで流れるあの血の匂いの何十倍の匂いで怖くなってそれ以上近寄れなかった。

 東玉川に戻ったのは夜中の12時を過ぎていたので、叔母に酷く怒られた。しかし「明日は日曜日だし二度とない社会勉強だから・・」と言ったら「二度とあってたまるもんですかっ!」と大きな声が返ってきた。

 翌日従兄が友達とやはり自転車で傍まで行ったらしいが、とても近づけなかったとぶつぶつ言いながら帰ってきた。この事件は翌日のTVニュースでも盛んに流れたが、現在のようにTVの中継は無く、ニュース特報で流れる程度だった。

 この頃テレビを賑わした事件で印象深いのが「草加次郎事件」「吉展ちゃん誘拐殺人事件」だった。特に草加次郎事件は愉快犯的印象だったが、吉展ちゃん殺人事件は日本中のテレビの前の一般人視聴者が全員で探偵に成って刑事と一緒に犯人を追ったような印象がある。

 一方で1963年の暮れにはあのプロレスの力道山刺殺事件が起こっている。(12月8日に事件が起きて15日に死亡)事件の12月8日は私の誕生日だったので良く覚えている。
力道山は小学生時代、小倉に来た時に観に行った。 Yahoo画像