そもそも、昨今の日本人ほど他国からの評価、眼を気にする人種は居ないだろうと思っている。これは明治時代から昭和の中期までと、太平洋戦争後では大きく異なっていると思う。戦後は外人が来ると必ず「日本はどうですか?日本の印象は?」と褒めそやす答えを期待した眼でインタビューする。昭和の時代が一番酷かったかもしれない。街頭で外人に出遭うとテレビ局のインタビューアーはマイクを突き付けて必ず「日本の印象は如何?」だもの。自分は海外に行って、地元の人達にそんな事訊かれたためしがない。それより「お前の国ってどうよ?」が圧倒的だった。
海外からの観光客誘致には1930年代の方が盛んだったようだ。まだ日本人が己自身にも国民としても世界の強国としての誇りと自信を持っていた時代なのだろう。
一方で、
それに加えて、最近は報道すべき内容や追求すべき事実を「報道しない」「ニュースに取り上げない」という行動で「嘘をつく、不都合な事実を隠蔽する」事が普通に行われてしまっているようだ。同時にそれがネット上で暴かれ一般国民は知っているのに4大メディア(新聞・雑誌・テレビ・ラジオ)に載らないというおかしな現象が起き始めている。
例えば、今回相模原市の津久井やまゆり園大量殺人事件の犯人。衆議院議長への手紙に具体的な襲撃先「津久井やまゆり園」の名前や470名を殺害すると内容を書いていたにも拘らず、十分な対応をせず事件が起こった件。
手紙を受け取った人間、警察への連絡、警察の対応、緊急強制入院先の退院を許してしまった医師の責任。その他の責任問題、何故事件が起きてしまったのか原因究明?それ程具体的な犯行予告が在ったにもかかわらず事件が起きた事に対する責任追及がマスコミから全然起きない「不思議」。普段は蜂の巣をつついたように追求するワイドショウですら、深くこの点へ踏み込んだ追及は無い。非常に不思議だ。
障害者への差別や虐待に関する報道より前にもっと原因追及や防げなかった理由を解明し、責任を問い、再発防止を訴えるのがマスメディアの役目ではないのか?ヘイトクライム許さないなどと言う第3者的「いい子」になってどうする?この辺りが日本のメディアの卑怯な所かもしれない。
普通の最近の一般メディアで隠しても、ネット上の色々な情報サイトでは詳細な裏情報が沢山溢れている。こういった点はパソコンを使えないのでネットは判らない・・・という人々と早くから電脳化したグループの間にデジタルデバイド(デジタル情報格差)が起き、この先更に酷くなるだろう。
このような状況下で、日本人の本質はあまり変わっていないのだろうが、最近とみに気になる「特徴」があちこちで見られるので幾つか取りあげてみたい。
まず今回は、KY(ケーワイと呼ぶ)という一種の流行隠語?このKYと言うのは「空気を読め!という事だ。周りの殆どの人達が暗黙の内に認めている、あるいは望んでいる事に対して一人だけ反対してその場を混乱させるな!浮き上がるな!雰囲気を壊すな!という事だろうと思う。これは「秩序」を貴ぶ日本人ならではの現象。地方の村社会で一人だけ突出したり変わった事をすると皆に非難され叩かれるのと一緒だ。日本人が如何に群れて、周りを気にしながら生活してきたかが良く判る。個々が確立していないのだ。
学校のPTAや職員の職場などで特に如実に表れるのだろうきっと。
最近の熊本地震もその良い一例だろう。熊本に住んでいる方々は「昔から熊本には大きな地震は来んと思うとった、皆が昔からそぎゃん言い寄ったもん、何でやろ?」が大半の地震直後の感想だった。地元の新聞の見出しや解説を視てもそうだ。地元の自然環境・専門業界の人間ですら、地震の直後はそのようにメールに書いているほどだもの。
それが、地震が少し落ち着いた後、地震学や地質学の専門家が「以前から危ない場所で在る事は実はデータ的にも明瞭。現実に1年前から幾つかの地震が発生、前兆も在った」と書くに至って、行政含めて予知対策の不備に気が付き反省したという。しかし地元の有力新聞は勿論行政べったりだから、行政を責めたりしない。
団塊世代には、あまりこういう「KY」などという突出する者や好悪同を諫める現象は無かった。人数が多い世代だけに「人と同じ事をしていては埋もれてしまう」という意識が強かったのだろう。むしろ目立とうとする人間の方が多かったと記憶している。その最先端がヘルメットに角棒の全共闘だろう。
一般の学生たちも周りに遠慮して自分を押さえる事など、あまりしなかったように思う。同時に他人から自分がどう見られているかなど気にせず、むしろどうしたら目立つか?どうやったら頭一つ抜きん出られるかの努力をしたのだろうと思う。
ただ団塊世代が一般社会人になって、会社勤めした場合は世の中の「習い」に甘んじて、一人だけマナー違反、ルール違反、後ろ指をさされそうな、あるいは眉を顰められそうな行動はとらなかった。あの角棒を持ってヘルメットをかぶりタオルで顔を隠して暴れていた輩ですら、ネクタイ絞めて何食わぬ顔で完全サラリーマンを演じていたもの。
その完全サラリーマン達もバブル崩壊で金融危機・山一證券、拓殖銀行などの破綻により涙ながらに社長が「社員は悪くありません!」と叫んだあの瞬間呪縛から解き放たれて自分に正直に生き始めたのだ。それまでは会社が社員を守り福利厚生に至るまで「会社員同士は皆さん家族・戦友・・」といった団体意識・常識が一瞬にして消えた。
これを機にサラリーマンの常識が180度変わった。終身奉公が消えた!
会社は何もしてくれない、倒産の瞬間まで会社上層部は社員に本当の事は何一つ教えていない、自分の身は自分で守るしかないのだ・・・・となった。目が覚めたのだ。それまで会社勤め人の美徳とされてきたサービス残業、有給休暇の未消化が当たり前という常識が崩壊し、有給を取らない奴はバカ、時間が来たらさっさと帰る・・・が当たり前になった。
出世を望んで、プライベート時間や自分自身のやりたいことを捨てるなどもってのほか。主な仕事が組織や部下の業務管理、その上ノルマや責任が重くのしかかる管理職になど誰が成るものか!
管理等と言う仕事はモノを造りだせない、発想力のない、管理するしか能のない奴がやれば良い・・・と言う動きが出てきた。
この先頭に立ったのが団塊の世代だ。出世を断る人間が出始めたのも団塊世代だった。勿論人数が多い為、出世するポストが限られている事を見越しての先手だったのかもしれないが・・・。
その団塊世代が「勝ち負けにこだわる」傾向が非常に強いという事実は、2013年12月28日から始めた週末だけ掲載のこのサイトに連載したブログ「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」に詳細に書いてある。お時間のある方々は是非ご覧頂きたい。飛びトビで読み難いかもしれないがご容赦を。
団塊世代のヤマセミ狂い外伝の初回ブログは以下のサイトhttp://yamasemiweb.blogspot.jp/2013/12/blog-post.html
そうして、その勝ち負けにこだわって来た団塊世代はオリンピックの勝ち負けには当然非常に鋭く反応する。ゆとり教育だの勝ち負けを排する教育で育った子供達は一着二着、金銀銅メダルを一体どう捉えているのだろう?
学校の運動会で勝ち負けを決めさせなかった当時の教育委員会や先生たちは、勝ち負けや順位を争う事に命や国を背負って闘うアスリートたちを、一体どのように教え、見せていたのだろう?不思議でならない。
ましてや、国歌君が代や国旗日の丸を否定する教育者たちはオリンピックの時どうするのだろう?子供たちに何と言って教えてのだろう?
最近の日本人でおかしいと思う行動・現象はいくらでも在るが、少しづつ此処で取りあげつつ、「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」の続編へ入って行こうと思う。少し書き始めていた「団塊世代のウインドサーフィン狂い外伝」というタイトルで来週から再開しようと思う。
〇 日本人は何故レストランやラーメン屋に列を作るのか?
〇 日本人は何故同じものだと価格の高い物を買おうとするのだろう?
〇 お盆や行楽シーズンに成ると何故渋滞と判っていても回避しないのか?
〇 何故同じようなお笑い芸人が出るワイドショウを見続けるのだろう?
〇 日本のメディアは何故「芸能とスポーツ」が同じ括りなのだろう?