2022年8月10日水曜日

ブログ開始から10年目に入って団塊世代が考える写真撮影について・・#3。 After 10 years since this blog started , baby boomers think about photography again #3.

  やたらシャッターチャンスを重要視する記述が多いので、なぜだろうと思われたのではないだろうか。筆者がシャッターチャンスを重要視する理由は大学時代の絵画・油絵の単位を危うく取り損ねそうになった或る事件が発端となっている。

 横浜の大学の教育学部・美術専攻科に在籍中、油絵の教授から「シンジョー君は人物を描かないが何故かね?」とよく言われていた。

 確かに筆者は美術科にあって裸婦のスケッチだとか、お互いを描きあう対面描写がすごく苦手、というより嫌だった。歩いている人を描くのも嫌いだった。どこの美術専攻科の学生もそうするように、人体スケルトン=骸骨骨格の全身像から絵を描き始めたのだが、全然身が入らないかった。だから描く油絵は海だとか横浜の丘の景色、果物などの静物が多かった。

 そうこうしているうちに、ついに油絵の教授・國領經郎さんから「きちんと人物を描かなければ単位は上げられないよ!描かないまっとうな理由でもあるのなら話は別だがね・・・。」と言われてしまったのだ。

大学1年生の時、全共闘が全校封鎖中に國領教授ほか数名の教授を伊豆のキャンプ合宿に招待した際、夜のテントの中で國領先生が筆者を描いてくださった宝物。

 さあ困った。3日間の間に我が人生は方向転換せざるを得ないかもしれないのだ。しかし、3日間どころか1時間もかからず、筆者は上手い言い逃れを考え付いてしまった。

 3日間の猶予の後、全学年の美術科学生のいる前でその理由を述べる一種の裁判の様な集会が開かれた。

 筆者は余裕を持って堂々とそこでこう述べた。「人間を描かない理由を説明します、人間が美しい・魅力有る素晴らしい時はどんな時か・・・大口を開けて笑っている時、感動のあまり泣いている時、悲しくてマスカラが涙で流れている時、怒髪天を突くような怒りの時、つまり感情を目一杯あらわにしている時だと思う・・・・しかし歴代の名画にそんな絵が有るか?笑っているか否か問題になるようなモナリザがせいぜいではないだろうか?

 ここで聴衆からどよめきには及ばないがザワツキが感じられた。「シメタ!」と思い、調子に乗って少し大きな声で続けた。

 何故、歴代の名画に無いか?それはそういう瞬間をモデルに求めることは不可能だし、一瞬の筋肉の動きや目の表情のナセル事だから油絵で描く事自体が難しいのだと思う。

 したがって僕はそういう人物を描写するには「写真撮影」という方法が一番適していると思う。昔は写真と云う技術が無かったので肖像画や似顔絵という技術が発達したが今は中世ではない。写真も美術の一種だと思う、それが一番生かされるのが人物描写ではないかと思う。

 写真であれば1/250秒で瞬間を捉える事が可能だ。被写体が笑った直後に怒っても泣いても、シャッターチャンスさえ逃さねば連写でその瞬間を切り取れる。絵画にこれが出来るだろうか?」

「常にこの事が頭にあったので僕は描かなかった・・・。」22歳にしては生意気だったとは思うが、今でもこの考えに変わりはない。確信犯だもの。

 この後ほぼ全員が拍手し、「私もそう思う」「気が付かなかったが、自分は人物描写が好きだ」という者も出た。しかしほぼ全員が、一つの考えではあると同意してくれて教授は単位を授けざるを得なかった。

 これが私がシャッターチャンスの重要性をまず挙げるという根拠になっている。「瞬間」を切り取る!これが画像が迫力を持つか否か、ヤマセミが死んで見えるか?生きて見えるか?・・の分かれ目になると思っている。

 基本的に航空機も野鳥も空を飛ぶ物。格納庫や飛行場に駐機している航空機より飛んでいる航空機の方が美しい、野鳥だって木の枝に留まっている時より、水に浮いている時より空を飛んでいる時の方が遥かに美しいし主翼のフォルムや色もよく判る。

前がカワセミ、後ろがヤマセミ もう二度とないシャッターチャンスだ。

 だから筆者は航空機も野鳥も飛ぶ姿を画像に収めたいと思うのだ。現在までの野鳥の画像に飛んでいる姿が非常に多い理由がこれだ。

 色やピントは有る程度パソコンの画像処理で調整、増幅できるが、シャッターチャンスだけはパソコン処理できない。撮影者の撮影時の経験値と技量、努力と精進が確実に出てしまう。

 どんなに高いカメラやレンズを持ってしても、広告宣伝用の商品などのスタジオ撮影と違って自然物相手の撮影は撮影者の技量・経験+事前調査・研究に運が味方しなければ成就しない。

 
1972年横浜国立大学教育学部・美術専攻科在学中の自室。