一方で写真展への入場者、写真機材などの新製品発表見本市系への入場者はどうなっているのだろうか?写真展への入場者数は「報道写真展」あるいは岩合光昭氏の「ねこ歩き」あるいは「ネコライオン」などは数々のメディアの告知もあり、また写真とは直接関係のない猫好きの入場者数が増えているようだ。自分が最近強い影響を受けた動物写真家の故星野道夫氏の展覧会も同様。が、一方でいわゆるカメラ系メーカーのフォトサロンの写真展入場者数は減少傾向に在るようだ。此の傾向の原点は、写真を観て和むのではなく、自分で撮ってみたい、あれくらいなら自分でも撮れるだろう?・・・という参加型、なおかつ負けず嫌い的な心理が働いているらしいと言うのだ。
しかし、此処に大きな考え違いが存在するのだ。高い価格の最高級のプロ用カメラで撮れば「良い写真、カッコいい写真が撮れるに違いない!」と思っている人の何と多い事か?高価でハイスペックのパソコンを使っているから高度な事ができる・・訳ではないのと一緒で、大きな勘違いが此処に生じている。逆にカメラメーカーはそれを逆手にとって我が世の春!とばかりに新製品を発表し、一眼デジタルカメラのボディにまで嫌らしい色を付けて購買意欲を煽っている。何なんだろう此の傾向は?此れで良いのだろうか?皆さん「俺が、私が・・」と自分で撮り自己満足の世界に浸り始めた為、写真展へ足を運ばなくなり、他人の撮った写真集などお金を出して買わなくなった・・・らしいのだ。
※ http://yamasemiweb.blogspot.jp/2013/07/mrsteve-wilkings-is-my-great-teacher.html 参照
その他1973年雑誌アンアンの座談会に一緒に出た同い年の故前野やすし氏、ウインド、スノボイベントで散々一緒した播本明彦氏、雑誌ポパイでお世話になった馬場祐介氏、恩田義則氏、更には野鳥写真家のティム・レイマン、キアシシギの研究者アラン・スチュアートさんなどなど、多くのプロ達との話の中から得た知識、考え方をベースに筆者の頭の中は出来上がって此れを書いている。
一方で大手カメラ量販店、伝統的な銀座のカメラ機材屋さん、Canon、Olympusなどのショウルーム・サービス関係関係者にも話を訊いた。その殆どの方々の話は残念ながら受け売りで、ご自分の実体験ではなかったが役には立った。これは色々な立場によって考え方が違うと思ったからだ。
前置きは此れくらいにして本題に入ろう。
カメラマンも写真家も英語にすれば両方ともフォトグラファー(=Photographer)で同じだ。これは日本の国会で軍隊も自衛隊も英語にすればThe armed forces(=武装軍隊あるいは国軍)で一緒だ・・・と論じ合っているのと一緒だ。自分が接した海外の人たちの考えは簡単明瞭だった。結論から言うと写真家・カメラマンの区別はなく、プロかアマかの違いだけだった。中でもスティーブ・ウィルキンスとの長い合宿生活の中で得た一番納得のいく答えはこれだ!「依頼主(それが例え撮影者本人であっても)その注文どおりの写真を納品できるのがプロ。好きにたくさん撮ってたまたまその中にプロを凌ぐ傑作が数枚撮れたとしてもそれは何処で賞を獲ろうとアマチュア。
その前に、此の事に繋がるもっと大きな基本的な話をしてくれた。それはプロというものは写真撮影者でも中世の画家でも必ず「具体的なしっかりとした意図・目的」をもって撮ったり描いたりする。その目的を達する、満足させる為には勿論意図的な演出・工夫が存在する。出来上がったモノの良し悪しは此の演出・意図がどれだけ成功したか否かが重要なのだ・・・・と。
人の心を感動させる何かは決して漠然と「こんなの良いんじゃない?たくさん撮れば中には良いのが在るかも?」程度では生まれないという事だ。事前のロケハン、天候調査、太陽の角度、遮蔽物、背景の条件・状況予想を吟味した上で、出来上がった「写真・絵」を常に頭に描きながらシャッターを押す、或いは筆を走らせる・・・というのだ。
花を撮るにしても背景に空を抜くのか、完全に背景をぼかして花だけをアップさせるのか、形の素晴らしさを出すのか?色の綺麗さを出すのか?はたまた背景の場所(例えば鎌倉?)の効果を加えるのか?出来上がった写真が如何にピンが来て露出もばっちりであっても、その写真を観る人にどういう感動を持ってもらいたいかの意図の無い写真は「死んでいる」とも教わった。
意図的に撮ると言うのは当たり前の事。言葉で言うのは聴こえも良いし簡単だが「自然の在るがままに・・・」という写真を撮る事はとてつもなく大変だと学んだ。どれだけそう思わせる為の事前演出や準備が必要か、良く経験を積んだほうが良いとも教わった。勿論撮る前の意図的な準備と、最近多くなってきている撮った後のデジタル処理・加工で「ウソ」を造り出すのとはまったく別の問題だが・・。
その上、決して言い訳をしないという。「光がねー、」だの「人が多くてねー」だの「AFが鈍くてカメラが機能してくれない・・。」だの上手く行かない事を他に責任転嫁しないのがプロだとも言っていた。
紫陽花のアップだけを撮りに人出で超混雑の鎌倉に行く・・・人も多いが。
せっかく切り通しの多い鎌倉に行くならその佇まいも入れた撮影をお勧めする。
これは30年も前から自分も「まったくそうだ!」と思い続けているので、全然違和感は無い。
新しいカメラが発売になれば「良いらしい!」と「やらせの投稿書き込み」や「宣伝文句」に飛びつき、自分の持っているカメラ機材の自慢、なかなか出遭えない野鳥の撮影に成功した自慢、撮れた画像の良し悪し以外のところでの「優越感」の争い、或いは自慢合戦、自分を優位に見せたいが為の他人の貶し・非難・・・団塊世代に限らず一般のカメラ・写真撮影者の領域では此の手が増えているようだ。いや、此れは昔からゴルフや釣りやスキーなど趣味・娯楽の世界にも在るには在ったが、写真撮影の世界の場合は少し度が過ぎるケースが目立つようだ。
こうも言っていた。撮った写真を後から細工したり加工したり(いわゆるデジタル画像処理・レタッチ?)するのは撮影者としてのプライドに関わる事なので、自分は一切しない。そういう事をしないで済む様に事前に写真撮影の準備段階でそういう事を考えて段取りをするのがプロなのだと。1990年代からの付き合いで今はFB上あるいは郵便でのコミュニケーションしかない彼(スティーブ・ウィルキンス)だが、デジタルの時代になって写真の世界も本物のプロが少なくなって来たとコメントをくれた。
さて、本題の「カメラマンと写真家の違い」だが、簡単に言うと筆者はこう考えている。写真家はプロであるか、そうでないかの違いで大御所的写真家が居る一方、未熟者の写真家も居て良いと思う。
画家、版画家、茶道家、華道家、評論家、収集家、と呼ぶに資格が不要であるのと同じだ。それで飯を食っているか否かは別の次元の話。「食えない画家」と良く言うではないか。それが趣味であれ、ベテランか未熟か、先天的なセンスが有るか無いか(此れは実は非常に重要)は別として、一生懸命「夢中」になっていれば「写真家」と言って良いだろうと思う。言うだけならタダだし、誰も「お前ごときで写真家とはオコガマシイ!」とは言えないだろう。勿論、「写真家」と言う呼び方は評論家、料理研究家と言った程度のものでしかなく、決して写真撮影が上手いと言う事が「写真家」というタイトルの意味ではないから・・・。
一方でカメラマン、と言うのは現在英語圏ではビデオカメラ=動画撮影者の事を示すほうが多いとスティーブ先生は言っていた。いわゆるその作業姿を想像する言葉としてヒットマン(殺し屋)、メイルマン(郵便屋さん)、スポークスマン(解説・伝達者)、フィッシャーマン(=釣り人・漁師)と言う感じなので運動会で我が子の撮影に我を忘れている親もカメラマン・・・なのだ。
だから、野鳥の撮影を趣味としている御仁たちが、「アマチュアカメラマン達・・・」という一種見下した物言いは、上から目線の嫌らしい言い方以外の何ものでもないという事だ。自分も含めて少し反省したいと思う。決して経験を積んだベテラン上級者や高尚な野鳥保護・野鳥観察をしているからプロ・・と言うわけではないのだ。たとえご自慢の最高級のプロ用カメラを駆使しているとしてもだ。
急成長したデジカメ市場= http://www.monox.jp/digitalcamera-news-camera-sales-2012.html