そうして、レイアウトパッドに大きく目指す自転車の設計図と言うか考えをまとめたものを作画してみた。勿論この道10年以上の堀先輩、同期のサイクリスト横田氏のアドバイスを受けての事だが・・・。
で、手書きでトレーシングペーパーに描いた完成予想図を東村山のDiossというお店に持っていったところ、「んーん!」と唸ったまま若き店主は黙り込んでしまった。親の後を継いで自転車屋さんを始めたのではなく、自転車が好きで好きで堪らなくて自転車屋さんを始めたのだと言うこの店主は、其処までする注文客は居ませんでしたとばかり、物凄い思い入れでその描かれた自転車を造り始めてくれたのだった。
トレペにコンパスと定規以外はフリーハンドで描いた当時の設定予想図。
東村山のDiossというお店。散々お世話になったがその後どうしたろう?
その一方で40年前と一番変わったのが道路事情だ。とにかく車の数が半端ではない。三鷹から多摩川を渡って郊外へ行けば地道の自転車走行に適した田舎道はあちこちに在ったものだが、今は整備され宅地化され舗装されて国土地理院の5万分の一の地図を見ていてはまったく判らず迷子になってしまう。当時はまだまだ郊外開発の初期の頃。町田街道の地道の側道に入り、林や竹林を抜け警視庁の白バイの訓練所などを抜けて走ったことがあった。半分山奥のような地道をクリクリとペダルを漕いで走っていたら、当然急に前方の景色が明るくなり高い崖の上に出た。あの時のショックは未だに忘れない。
眼の前に広がった景色は何処か遠い星の大都会のように見えた・・・・って、其処は筆者が初めて視た、出来て間もない多摩ニュータウンだった。まだ当時の人口は3万人程度で世帯数も1万世帯に達していない現在の1/7の規模だったが、いきなり映画のセットのように出来上がった高度成長下の大型新興住宅地は、充分最新の未来都市の様に見えたのだった。
当時は多摩の奥地にはまだこういう地道の農道が沢山存在していた。
その町田街道も今や怖くてとても走れたものではない。40年以上前、20歳代の当時とは歳も違い車の走行を予測する等、反射神経が持たない。地理・地形、見た目の景色が変わってしまった為、携帯電話、スマホだろうがガラケーだろうがGPSで現在位置を把握しなければ完全に迷子になってしまう。現在サイクリングを楽しむには、車の屋根に積んで郊外へ2~3時間移動してから自転車を走れせねば成らない時代になっているようだ。
三浦半島半周RUN
当時の横須賀駅で記念撮影。撮影者は筆者。
八ヶ岳、麦草峠横断に向かう朝、国鉄小海線・八千穂駅頭で。
このときは峠近くで雪道を通過と言う過酷なツーリングになった。
旧中仙道のバス停で一服。いかにものどかな農村の佇まい。NHKラジオ第1放送、平日のお昼のニュースの後に流れる「昼の憩い」のテーマソングが最もふさわしいシーンだろうか?
NHK昼の憩いBGM= https://www.youtube.com/watch?v=9QLuvzjLlQo (YOUTUBE)
40年前はツール・ド・フランス、或いはパリ⇔ルーべのようなクラシックレースでの
チームウエアを真似した上着は既に在るには在った。しかし、なかなか高いうえ手に入らず、余程のファンでもない限り、サイクル雑誌に出てくる有名選手のようなスタイルで自転車には乗らなかった。第一、ロードレーサーで郊外へ行っただけで「あっ!競輪だ!」と言われた時代だもの。
むしろ当時は神田の「スポーツサイクル・アルプス」を中心としたランドナー或いはパスハンターと言われる郊外地道走行者・峠越えを主眼に置いた伝統的なサイクル集団のスタイルのほうが正統派とされていた。(=スポーツサイクル・アルプスは東京都千代田区内神田にあった自転車店。商号はアルプス自転車工業株式会社。ランドナーやパスハンターなどのツーリング車を得意とし、受注生産のみの販売を行っていた。2007年閉店。ウィキペディアより)
サイクリングのウエアーに関しては見れば一目でそのライダーの好み・走り方が判ると堀先輩から教わったものだ。この堀先輩は完全にランドナーに乗って伝統的かつ基本的な自転車道?を極める筆者にとっても伝道師のような存在だった。エネルギーの配分、道路の走り方、地図の見方、休憩の取り方等数々の「専門的実践に基づく教え」を事細かに伝授してもらった。
自転車における大先輩、ヴァン ヂャケット同僚・堀俊治氏。
正月ランでは三鷹から茅ヶ崎まで南下。ニッカーボッカーにノルディックセーター。シャ-ロックホームズ帽にパイプなど英国のサイクリストを気取っていたようだ。
ハードな峠越えにはやはりサイクル専用ウエアで挑んでいるようだ。
プロデューサー内坂庸夫(元ヴァン ヂャケット宣伝部)プランナー・ライター新庄俊郎(元ヴァン ヂャケット販売促進部)アドバイザリースタッフ堀俊治(元ヴァン ヂャケット営業)同じく横田哲男(元ヴァン ヂャケットKent営業)など元ヴァン ヂャケット社員OBで作った様なものだ。つまり1970年代半ばのヴァン ヂャケット社内には遊びの範疇であっても雑誌の特集をまとめる事が出来るほどの自転車・サイクリング知識と経験を持つ社員が沢山居たという事なのだ。こういう社員が育つ環境を創り上げた意味でも石津謙介社長の理念は絶対に間違っていなかった、・・・と今にして思うのだ。
更に、この自転車に関しての色々な話はその後、1978年4月ヴァン ヂャケット事実上の倒産後、銀座の広告代理店に転職して後あるスポンサー(有名な自動車メーカー)の依頼で輸入自転車販売プロジェクトにメイン参加した際、大きな成果を挙げる事にも繋がって行くが、その話はもう少し後になる。
話は変わるが、1974年頃から東部アイビーリーグ8大学の学生ファッション中心にVANブランド、Kentブランドで成長を続けていたヴァン ヂャケットがカリフォルニア=ウエストコーストのアウトドア系ファッションのソースを入れ始めた事は何度もこのブログで述べた通りだ。当時その流れの中で自転車の存在は非常に大きなものがあった。
L.L.Bean,Eddie Bauer,Shierra design, Camp7など数多くのアメリカ西海岸アウトドアブランドに必ず付いて回るバイク(=自転車)はそのうちマウンテンバイクのジャンルを生み出しメジャーなスポーツに発展する過渡期だったのだ。
既に自転車に関わる備品などにはThe North Face(※決して北の顔・・・ではない)などのアメリカのアウトドア・ブランドが入って来ている。
藤代氏自慢のハッチバックに3台の自転車を積んで遠出をした。
安曇野を行く池田氏(前)藤代氏(後ろ)