2015年6月21日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #114.」 ヴァン ヂャケットの社内エピソード、トラッド・アイビー最盛期の終焉 その1.

 こうして順調に充実した生活を送っていたヴァン ヂャケットの社員生活だったが、1978年のある日、池袋西武百貨店で石津社長自らが店頭に立って来店客、つまり消費者対象のブレザー講座が実施された。そうして此の時まさに言うに言われぬ何か不安と異変を感じたのだった。此れは筆者だけだったかもしれない。 
 勿論Kent営業、ヴァン ヂャケットの星、西武系が担当の横田氏を中心に販売促進部が全面的に支援するスタイルだった。販促部の担当は筆者ならびに横田氏共通同期の愛甲氏、それに安達先輩も現場へお出ましだったので上手くいかない訳がなかった。総合司会はあの饒舌でユーモアたっぷり、「何と何とぉー、そんなことしちゃったりしてぇー!」と独特の節回しで当時のナレーター・声優の中でも絶大な人気を誇った広川太一郎さんだった。
場所は定かではないが、2階にメンズの売り場があるという事は池袋西武ではないようだ。


当時の百貨店の店内は店頭在庫(=商品量)が非常に多かった。

 このとき石津社長が百貨店のフロアで立って解説を行う姿の向こう側に居並ぶ観客・消費者の姿を観て背筋が寒くなったのを今でもはっきりと覚えている。お客の中に誰一人ジャケット、スーツ姿のお客が見当たらなかったのだ。極端な事をいえばヴァン ヂャケットの社員3名、売り場の販売員、西武百貨店のフロア責任者達、それに司会の広川太一郎氏と石津謙介社長。このメンバーだけしかスーツ・ジャケット姿の人間は居なかったのだ。
一段高いステージもなくフロアに立ってのイベントは目立ちにくかったろう。

 此の瞬間ある意味自分の中でも、「残念ながらヴァン ヂャケット」最盛期の時代が終わったかもしれない。と思ってしまったのは間違いでは無かったような気もしている。実はこのブログを書いていてこの写真の催事が実は1978年の4月2日だったのを発見!何と会社更生法申請(実質倒産4日前)のイベントだった事を確認した。ヴァン ヂャケット倒産前最期の石津社長の写真に成るかもしれない貴重なものだった。

 少し話を遡ると、社内でも商品の売れ行き不振が営業会議で全国的に報告され、特に1976年夏、新ブランドSCENE、及び少し遅れて実質デビューしたNiblickのスタート時の記録的な冷夏長雨がたたり、衣料販売不振の中ダブルパンチでヴァン ヂャケットの屋台骨を揺るがし始めていた。
 
 此処に1976年夏、冷夏長雨に関する気象庁のレポートがある。「梅雨明けは四国、九州、奄美、沖縄地方で平年より遅かったほかはほぼ平年日前後だった。しかし梅雨明け後も太平洋高気圧の勢力は弱く、梅雨期から勢力の強かったオホーツク海高気圧が梅雨明け後も長く居座った影響で全国的に冷夏となり、曇りや雨の日が続いた。夏の平均気温は北・東・西日本で平年を1℃前後下回った。9月も顕著な低温で長雨の傾向が続き、全国的に農作物は歴史的不作に見舞われた。」
あくまでイメージの新聞記事だが、まず農作物への影響がメディア報道の軸になった。
 
 当時はまだエルニーニョ現象という言葉は日本の気象庁でも使用されていなかったが、80年代になるとラーニャ現象と一緒に盛んに使用され始めた。1976~77年、更に77~78年はいずれもエルニーニョで日本は二年連続で冷夏に襲われた。此れが消費者行動に異常をきたしたのはいうまでもない。勿論まだ此の頃はいわゆる地球温暖化問題、国連の気候変動に関する政府間パネル(=IPCC)などのレポート等は発表されておらず、むしろ2年続いた冷夏長雨の直感的な感覚として地球は小氷河期に入りつつあるのではないか?この先は防寒具・サバイバル的商品が売れるのではないかとさえ言われ始めていたのだ。ちょうど分厚い「WHOLE EARTH CATALOG」が月面に浮かぶ地球の写真と共に話題になった時代だった。
当初、雑誌ポパイなどで大々的に取り上げられたホールアースカタログ。1968年に創刊され、1974年に最終号が出で終了したが、あのスティーブ・ジョブスが大学の講演でこの本の一節を引用してアピールしたのは有名だ。原語版でまだ一冊持っている。

 残念ながらこの1976年にスタートした新ブランドSCENE、NIBLICKのブランド・スタートプロジェクトのメンバーに筆者は入れて貰えなかったが、きっと派手なスタート演出の影で何処かマーケティングの不具合が有ったのだろうと思う。質実剛健で伝統に培われたトラッド・アイビータイプが好きだった自分的には、ヨレヨレの化学繊維素材で出来たアメリカ中西部のでかいアメリカ人が着ているような新しいコンセプトの商品群はとてもじゃないが好きになれなかったのも確かだった。
 当時はセブンデイズといった量販店用のプライベートブランドに、一部そういったパンタロン系のヨレヨレ素材のズボンが有ったが一度も手にした事は無かった。

 内見会用に準備したコンセプトスライドのツール群もどんどんステップアップして、3台のプロジェクターを同時に稼動させ、スライド画面のつなぎ目をスムーズに、カラの店舗に徐々に商品が陳列され、最後には販売促進フェアの飾り付けまで動画のように見える仕掛けまで造ったのだが、何か非常にむなしいものを覚えるような日々が続いた。
 画面はその殆どが、雑誌ポパイから切り出したような写真ばかりで、つい2年前メンズクラブの写真を切り貼りしていた時期からの急激な変化に戸惑うばかりだった。前にも述べたが、西海岸風のアウトドア・ニュースポーツ的雰囲気でインテリアを演出し、商品も如何にもポパイの最新号に載っているようなアイテムでまとめたにも拘らず、そのパース(=手描きの完成想像予想イメージ図)に出てくる店員やお客がまだネクタイをしてジャケットやスーツ姿という何処かちぐはぐな時代だった。

 この1976年夏の終わり辺りから、総じてヴァン ヂャケット全社での売り上げが悪い、全社的に経営が危ないのではないかと言う雰囲気、気配を察知した勘の鋭い社員達は決して少なくなかった。特に社内でも現業つまり最前線で外勤・販売・営業に従事していないスタッフ部門の者の間では、いつもデスクに座っているため噂は非常に速い速度で伝わる。深刻に「次のステップ、次の職場」を意識し始めた者が出始めたのもこの頃だ。何故か個人的に意匠室のメンバーに今後の事を相談される事が多かったのを覚えているが、決してそれは同期ばかりではなかった。

 そこで、自分でも勿論会社には内緒で2箇所、広告宣伝関係会社の中途採用試験を受けようと準備を始めたのだった。ちょうどこの頃は盛んに宣伝会議、ブレーン等の広告業界専門雑誌を読みふけっていた頃で、自分の職域である販売促進・宣伝ジャンルの専門職がどのような広がり・可能性を持っているか思案し始めていた所だった。まだ幼稚園にも上がらない2人の幼い子供を抱えて、30歳前の筆者がこの先の生計をどう立てようか真剣に考えるのは当たり前の事だった。