1981年のウインドサーフィン沖縄選手権大会以来1998年頃まで広告代理店に在籍しながら数多くのウインドサーフィン大会をプロデュース・運営してきた。本当は前年1980年にこの沖縄で予行演習を兼ねてウインドの全日本選手権を実施したのだが観客もスポンサーもほとんどなく、まだマイナースポーツの域を脱していなかった。
ウインドサーフィンは普通の波乗りサーフィン以上のボディバランスとスピードに対する感覚、ジャンプした時の3次元空間でのバランス感覚と着水先を読むセンスが必要なので単純にサーフィン経験が有ると言ってもすぐに入って行ける感覚のスポーツではない。
それが証拠に波乗りサーフィンからウインドサーフィンに移行する者よりヨット競技から移行して来る者の方が当初遥かに多かった事でもよく判る。第一、風を読めなければ乗れないし、出た所に戻れない。これはもうベクトルの世界なので競技などでは性格的に冷静で頭が良くなければ勝てないという事。オリンピック競技種目にもなったが、サーフィン上がりの選手が上位に入ったためしがない事でもよく判ろう。
1981 Windsurfer class World championships in Okinawa.
1981年のウインドサーファークラス世界選手権大会は日本航空はじめ当時の松下電器など日本の大手企業がスポンサードしたマリンスポーツとしては画期的な大会だった。テレビ局も民放が1時間番組として特番放送したし、沖縄の海の綺麗さをアピールしながら観光活性化に大きな役割を果たした大会だった。それを行ったのが今はもう無い中央宣興という中堅どころの広告代理店で、電通でも博報堂でもないところが面白い。
This is the first time to make race-results by Personal Computer.
この大会からほぼマリンスポーツの世界では初めてのコンピューターによる成績結果発表が成され画期的な出来事として多くの話題を集めた。パーソナル・コンピュータ、いわゆるパソコンというジャンルの先駆けだった。
Maui Island was the most exiteing place about Windsurfing. Everything was growing up in this tropical windy island.
それから5年後、ウインドサーフィンは多様化して勝ち負けを着順で競う平水面レース主体から、強風と大波の中でパフォーマンスを競うコンテスト主体に重心が移ってハワイのマウイ島がメッカに成って行った。日本人も大挙遠征してウインドを楽しんだ。このパンフレットはその頃初めて一緒に仕事をしたスティーブ・ウイルキンス氏に依頼した画像や自分の画像で作成。文章もほぼ自分で制作したもの。このトップライダーが沖の風と波を注視する姿は当時非常に好評だった。
Particularly Hookipa Beach was getting up to the symbolic place in the world.
マウイのフキーパ・ビーチは上のパンフの表紙になっているマイク・ウォルツが発見し開拓したコンテストに最適なビーチでウインドサーフィン界ではもっとも有名な場所の一つ。
Foodriver in Colombia Gorge, Oregon was another famous point of Windsurfing sports.
1980年代も終わりに近くなると、オレゴン州のコロンビア河中流域の峡谷にあるフッドリバーにウインドサーフィン関連の最新技術のファクトリーが次々に出来て一大産業のメッカに成った。上の記事は雑誌ターザンで取り上げたもの。この時に自分がライダーとして撮影した場所はロンダ・スミス・サンチェスというウインド創生期の著名なプロ選手のお宅の庭先だった。