基本的にフェリー乗り場には何もないのだ。売店が一軒在っただけ。そこでカップラーメンを購入。お湯を貰って4分待って昼食にした。実はこれが今回23日間の貧相な食生活の第一歩だった。
この泉大津~新門司間の阪九フェリーに関するレポートはリアルタイムで5月5日~6日の2回に分けてリアルタイムで投稿したのでご参照願いたい。
5月5日(土)=「団塊世代がフェリーの上から見た太陽と海。」
http://yamasemiweb.blogspot.jp/2018/05/the-baby-boomer-watched-sun-ocean-from.html
5月6日(日)=「団塊世代はフェリーの設備が不満だった。」
http://yamasemiweb.blogspot.jp/2018/05/the-baby-boomer-generation-was.html
今日は筆者が小学校1年生の夏から6年生の夏まで過ごした、北九州市小倉北区(当時は北九州5市の一つ小倉市)のレポート。筆者は「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」の中でもこの小倉市に関しては詳しく触れている。
団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #16. 「旦過市場は日本一の市場。」
http://yamasemiweb.blogspot.jp/2014/02/i-think-tanga-market-which-located-in.html昭和30年代がそのまま残っている小倉の銀天街の南に続く「旦過市場」。父親に連れられて何度歩いた事だろう。当時は今よりはるかに賑わい混雑していた。今でもそのイメージや匂いはそのままだ。
広告代理店勤めに成って、なおかつ会社勤めを卒業した後に意外な身近にこの小倉出身者が居る事が判明、ことのほか小倉への想いが募る今日この頃だが、実に不思議な街なのだこの小倉は。
イラストレーターの真鍋博さんの描く未来がそのまま現実になったような立体的な姿を見せる小倉だ。
何と言っても中心の盛り場はこの魚町銀天街。非常に天井の高いアーケードなので心地良い。全国的に見てもシャッター店舗がこれほど少ないアーケードは無いだろうと思う。
途中から横道に入ると鳥町食道街があり、我が父が通い詰めた中華屋の「耕治」がある。東京から転勤して来た我が父は豚骨ラーメンを食べられなかったので、東京風の澄んだスープの「耕治」へ毎回家族を連れて行ったのだ。今回も半チャン・半ラーメンセットを食べたが、スープも炒飯も非常に美味しかった。
同じ銀天街から横方向の筋に子供の頃から在る栗饅頭で有名な「湖月堂」。人吉の皆さんへのお土産を此処で調達した。いつも羽田空港のお店ばかりだったので・・・。此処の二階はレストランに成っている。幾度か入ったが広くて気持ちが良い。
栗饅頭に加えて、季節ものの「ちまき」と「かしわ餅」を調達。人吉でも「湖月堂」は名が通っていたようで好評だった。
そうしてその南に在るのが通称「旦過市場」本当は旦過中央市場という。
団塊世代が終活に入ったから出来たと見えるお店も・・・。
この旦過市場はモノクロ写真で観るのが当たり前、昭和30年代が蘇る。
子供の頃、お腹に出刃包丁が刺さったままの男の人が雨戸に乗せられて運ばれて行くのに二度ほど遭遇した。父親は肩車して「俊郎!よく見ておくんだぞ。」と言った。何故包丁を抜かないのか訊いたら「抜いたら死んじゃうんだぞ。」と教わった。江田島海軍兵学校の教官上がりの我が父は普通の優しいパパではなかった。
旦過市場の横丁は今でも昭和時代の映画をそのまま撮れる場所だ。
ぬか炊きは人気のお土産食材だ。非常に賑わってる。