すっかりボーンマスの人間に成り切って、心も姿かたちも英国人に融け込んだつもりではあったが、やはりロンドンへ向かうと成ると普通の日本人観光客にすっかり戻ってしまっていた。
ボーンマスで小池と共に仲良くなったグループがある。背の高い横浜の京急富岡に住む・カラス(犬山洋子さん)、新潟か何処かから出てきたジャイアント・リトルパンダ(名前忘れた)、大森の米屋の娘・カミパン(前川園恵さん)など、これ以降ロンドン・パリ経由でローマから南回りで帰京するまでほぼ一緒に行動した。
ボーンマスで仲良くなったグループはその後行動を共にした。
ロンドンへのバスはビートルズの「Magical Mystery Tour」のバスと同型だった。
このカミパンという仇名は、既にボーンマスに到着する頃から付いていた。理由は初めての海外旅行で荷物が多くなるので、その頃発売され始めていた紙製のパンツを大量に持ってきていた、との話から小池が付けたもの。穿き心地がどうだったかはまだ訊いていない。カミパンの名前はすぐツアー参加者全員に知れ渡る事となり、語学学校の先生達も授業中彼女を指すときには「ハイ!カミパン」と言っていたようだ。
ひょっとするとそのカミパンも、もう10年も経つと紙パンから紙オムツを穿くようになるのだろうか?
ロンドンに出てみると小雨だった。30日間晴れていたのが帰る間際になって雨だ。ロンドンは雨のほうが風情が在るとか言って、皆満足だった様だった。ロンドンでは2泊した。この間いろいろな所に行ったが、個人的にはビートルズに関連した場所や映画の中に出てきた場所に行ってみたかった。基本は1964年に封切られた「A Hard Day’s Night=ヤアヤアヤア・ビートルズがやってくる!」関連の現場を体験したかったのだ。最近何かと話題になっている団塊の世代のリバプール詣での先駆けと言っていいだろう。
まず最初に行ったのがメリルボーン駅(Marylebone station)だ。ビートルズの最初の映画「A Hard Day’s Night=ヤアヤアヤア・ビートルズがやってくる!」の冒頭に出てくる駅だ。駅のホームに車を入れられる事にとにかく驚いたことを覚えている。同時に4人が木製の連続した電話ボックスに並んで電話を掛ける振りをするシーンの場所を探した。
もちろん、最後の録音になったアビーロード(発売はLET IT BEが後)アルバムの有名なジャケットの場所、アビーロードに行って4名で同じような格好で横断歩道を歩いたが、せっかく撮った画像は何処かへ行ってしまった。その後JAZZからクラシックまであらゆるジャンルのビートルズ・カヴァー演奏のレコードジャケットがこの真似をしているのも面白い。LPアビー・ロードのジャケットの亜流は何種類出ただろう?
我々4人で真似して歩いた画像が無いのが残念!本物の撮影が夏である事が判る。通りに長く突き出した木の枝や、右の特徴ある建物周りの木々の葉がレコードジャケットだと生い茂っている。
この道路表記は今はもう無いだろう。この頃ですらこのような感じだった。
ビートルズに関する記念の場所はこの当時はこのくらいしか知らなかったので、残念ながら他へは行っていない。現在は焼けてしまったり、取り壊されているものが多く、撮影場所に行くのはなかなか難しいようだ。
もちろん、ビートルズ関連のレコードなどは大量に買い込んだ。今やもう何処へ行っても手に入らないようなカバー・バージョンやごく初期の海賊盤などを買い込んだ。実はお土産のトランクの半分の重さはこのレコード類だったような気がする。日本に帰って羽田空港に着いた途端、トランクの金具も壊れてしまった程だ。当時はまだ塔乗客の荷物を放っていたのだろう。
英国オリジナル・シングル盤の「I want to hold your hand」
ビートルズ以外にも、いわゆるリバプールサウンド関連のレコードは満載のロンドンだけに、23日にポーツマスで観たThe Hollies関連のレコードなども買い入れた。これらのコレクションはいまだに宝物として大切に保管している。いくつかをここに紹介しておこう。
殆どは出来立てのCAMDEN LOCKや安売りスーパーのWOOL WORTHで買い入れたもの。
ロンドンでのモノ漁りもそこそこに、ロンドン・ナショナルギャラリーでゴッホの「ひまわり」「自画像」「糸杉」のいろいろなバリエーションを、テート・ギャラリーでターナーのいろいろな色調の絵を堪能した。夜は映画館で、あのグルノーブル・オリンピックで三冠王だったジャン・クロード・キリーが主演のスキーアクション映画「SNOW JOB]を観た。ボーンマス最初の日に観たあのトルコのポルノ映画より遥かに判り易く、自分でも少しは成長して英語がわかるようになった気分になった。しかし雪の上をかっこよく滑るキリーに言葉は要らないから、そうでもなかったかもしれない。でもそれを言うならポルノなどもっと・・・・・この辺にしておこう。
ジャン・クロード・キリー主演のアクション映画。あまり評価は高くなかった。
ロンドンからパリはガトウィック空港からの空路だった。短いフライトだったが、パリに着いての宿、はレパブリックの大きなホテルだった。今はCROWN PLAZA ホテルとなっているが、その頃は別の名前だったと思う。2005年に行って泊まった時はホリデー・インの名前だった。ずいぶんと経営が替わったようだ。
このパリでは面白いことがあった。当時のフランスではあまり英語をしゃべる人が居なかった。母国語に大変な自信と誇りを持っているフランス人は英語を喋りたがらなかったのだが、世界のビジネスのすう勢とインターネットの普及で英語を話さなければやっていけない時代になった現在、ほとんどのフランス人は英語を喋るが当時は全然環境が違った。
何処へ行って何をするにも、身振り手振りだった。そんな中、ホテルのエレベーターの中で同い年位に見えた金髪の若い女性と一緒に成った。一瞬目が合って、「ハロー!」と言い合った途端「You speak English?」と来たもんだ。日本の英語の授業のようにDo you? もしくは Can you? から始まらなかった。即「A little bit,~」と返したら、もうベラベラしゃべくりまくって何が何だか判らなくなってしまった。そこで、ゆっくりとこちらの状況、英語はまだ練習中でろくに話せないことを説明した。そうしたら、彼女もドイツから母親と観光に来たのだが、何処かへ行ってしまい一人で英語の通じないホテルの中でどうしようも無くて困っていたと言うのだった。そこで、小池たちと合流するまでの間だけという約束で、ホテルの1階のテラスでお茶をしながら英会話をすることになった。国際親善とでも言おうか、いわば生の語学実地訓練だ!
1972年と2005年に泊まったリパブリック広場にある大きなホテル。1972年頃はリュパブリック・インターコンチネンタル・ホテルと言う名だったと思う。その後2005年頃はホリデー・イン、現在はクラウン・プラザと名前が変わっているようだ。
彼女の家はドイツのバイエルン地方の貴族の系列だという。こちらも350年前江戸時代、麻生藩1万五千石の殿様・つまり日本の貴族が先祖だと言うと、もう話が盛り上がってしまった。 ヨーロッパ人は身分制度の名残が誇りとしてまだ各家族にあるらしく、それなりの身分の人間同士で仲良くなるようだった。ボーンマスでの地元の人たちとの会話とは、ずいぶん違う次元の会話に多少戸惑ったが、ヨーロッパ大陸文化の一端を垣間見た気もした。
1時間ほどして、小池がカラスとジャイアント・リトルパンダとカミパンを連れて合流したが、シンジョウがカフェで金髪の姉ちゃんと真剣なまなざしで話しているのを見て、相当驚いたようだった。こちらが真剣なのは、会話に間違いや誤解があってはいけないと必死だったのだが、小池は勝手に金髪美人を口説くことに真剣だと勘違いしたらしい。暫く4人で遠巻きにして観察していた様だったが、金髪の彼女のほうが自分を見つめる東洋人の8個の異様な眼線に気が付いてしまった。
その後、ちょうど彼女の母親が戻ってきたのを機にドイツ美人とは別れて、我々グループはホテルを後に黄昏のパリの街へ食事に向かったのだった。その日のパリは雨も上がり雲間からすばらしい色の空が見え始めていた。印象派の絵のようなその空の色は、日本では今まで観た事が無い不思議な色をしていた。