筆者は1948年委東京で生まれ、1955年に東京で小学校(東京学芸大学附属追分小学校)に入ったものの、父親の転勤(十条製紙)により小倉市(現・北九州市小倉北区)に引っ越し。そこで6年間2か所の小学校(市立中島小学校⇒福岡学芸大学附属小倉小学校)過ごし、さらなる転勤で熊本県八代市に引っ越し、最終的に卒業したのは八代市立太田郷小学校だ。4つ目の小学校を卒業したのが1961年3月。
この小倉時代の附属小倉小学校時代のクラス会で知った事実は、東京首都圏への一極集中の生の現場話だ。なんとクラスメート43人中、20名が東京で生活していたのだ。だから2004年から暫くは東京でクラス会を開く方が多かった。(※もう現在は10年以上開かれていないし、今後も開かれないのではないだろうか?)
一人一人に「なぜ東京へ出てきたの?」と訊いたことはないが、結局東京の大学を目指したものが多かったという事の様だ。東京在住の出身大学を見ると、京都大学1名、津田塾大学1名、東京女子大学1名、東京外国語大学1名、横浜国立大学1名、早稲田大学3名、共立女子大学1名、成蹊大学1名、昭和女子大1名、国立音大2名、その他短大を含めると、この大学を目指したことが理由で、そのまま東京で就職~結婚という「定着コース」が見えている。
クラスメートによると当時の福岡学芸大学附属小倉小学校は文部省の教育実験校だったらしく、当時の教育ママの子弟が多かったためこういう結果(自分含めて)になっているのだと推察する。
しかし、大なり小なり当時の全国地方都市の「ベビーブーマー=団塊世代」はこういう傾向が強かったのだろう。
同時に、日本の高度成長の黎明期(初期)で、数年後に東京オリンピック(1964年開催)を控えた東京首都圏で働き手が不足し、全国から中卒、高卒の「金の卵」が集団就職で上京した頃だ。これらが実は東京首都圏の「一極集中」の原点のような気がする。
・・・と、このまま続けると数回のシリーズになってしまうので今日はこの辺で切り上げ、いろいろな資料を精査して後日投稿してみたい。
で、今日はヤマセミが自分の頭上を飛び抜けた際的、反射的にレンズを向け連写した際の画像。一瞬の事だったので撮れていること自体が奇跡なのだが、人吉の球磨川沿いにお住いの辻先生(名内科医)や古江さん、漁師の島津さん、塩見さんなどのご自宅は、上空を時折こういった形でヤマセミが飛ぶという。羨ましい限りだ。
今年は人吉へ行けないが、こういった環境に接する機会が次に何時来るか待ち遠しい。