2015年7月5日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #118.」 ヴァン ヂャケット倒産時の社内 その2.

5月も終わりに近づき、営業や販売等現業部門の社員を残して、非生産部門の宣伝・販促その他のポジション・部門の社員は退職する事になった。有給休暇が殆ど手付かずで随分残っていたので、筆者が実質毎日出社したのは4月後半までだったと思う。退職は会社都合なので退職金は自己都合退職の倍額が支給された。正確には覚えていないが200万円に少し欠ける額だった様な気がする。当時の自分にしては5ヶ月ほどは働かなくても充分食っていける大きなお金だった。白い封筒に退職金と書かれておりヴァン ヂャケット株式会社とだけ表記があり、VANのロゴ3文字は無かった。
退職金は明細書が入っていたようだ。

 現金が入っていたか、銀行振り込みの明細書だけが入っていたかは定かでない。いずれにせよ金額の大小は問題ではなく、その空しさを噛み締めるタダの封筒だったのを記憶している。それまで通勤に使っていた三鷹・原宿経由⇔表参道間の定期券は人事へ返したかそのまま使えたかの記憶は無い。

 今と違って高度成長下の時代、退職後の再就職に関しては色々な話が沸いては消えていった。有り難い事にオンワードの宣伝部にどうかという話も頂いた。しかしいきなり今までの競合企業に行く気には成れなかった。一方で近所にあった浜野安宏商品研究所からも「どう?やってみない?」という誘いを受けた。これは非常に興味を引かれたが、数回面談して残念ながらやめた。そんな時ヴァン ヂャケット商品企画セクションの相当上のほうの人の紹介で、あるデベロッパー会社と言うか複合型のファッションビル運営会社の販促担当をやらないかと言う紹介を頂いた。

 約10年前1969年にオープンした玉川高島屋を核とした二子多摩川ショッピングセンター近くに建設される新しいコンセプトのショップ集合体の話だった。まだ建設中のその事務所に約束の日時に行った所、怪しいアジア系を思わせる大柄の責任者らしい人と面談になった。まず自己紹介をしたら、開口一番「やる気があるか?どうなんだ?」と完全に威圧的な上から目線での物言いだった。倒産した会社の社員を拾ってやるんだから選択の余地は無いぞ・・・。と言う雰囲気で、瞬時にNG!だと決断した。

 直ぐに席を立とうとしたが、念のため就業規則・給与条件などを訊いたら、「そんなのは後回しだ、どうなんだ?やるのかやらないのか?話はそれからだ」と繰り返すのみだったので、黙って一礼をして席を立って出てきてしまった。条件も中味も提示しないで勤める気があるか否かだと?正月の福袋じゃあるまいし・・・なめられたモノだ。

 最初からこうでは就職しても半日も持たないだろう。後ろで「オイ君ィ、悪かった!」と大きな声がしたが、二度と振り返らなかった。勿論、紹介してくれた企画の先輩にもその後一度も会わずにそれきりとなった。
 時は流れ、21世紀になって2011年10月、石津謙介社長生誕100年記念の会場でその先輩の姿を見かけたが、話はしなかった。筆者を覚えている訳が無いと思ったのだ。
 
 それから暫くして、同じ大学から同期でVANに入った藤代氏と会って話をした。彼はイトーヨーカ堂の人事等から誘いを受けたようだったが、結局は販促部のSD課(ショップデザイン・施工系)の池田CAPと一緒に施工を中心としたプロダクションを立ち上げるとの事だった。
 池田CAPはVAN時代から多方面に顔が広く、そのセンス・実務力は業界でも広く知れ渡っていた。仕事は最初から沢山舞い込んで来たようだった。倒産前のペースと変わらない忙しさに「人徳」と言うものはこういうものなのだと勉強させられたのを記憶している。彼等はRenomaというブランドの施工・展示関係、オレンジハウス関連、ラルフローレンのインテリア部門の商品開発、展示施工等SHOP系の仕事を休む暇もなく次々にこなしていった。

 こうして暫くはドタバタした日が過ぎていった。

 一応個人のレベルではあるが事務的な事後処理、私物、自分の仕事の記録・資料、ごみの中から拾い集めた重要なデータ、自分が撮影・製作したスライドショウのポジ類をまとめて自分のデスク周りを綺麗に掃除し、最期の挨拶回りをする事にした。


既にこういった販促での仕事は無かった。

倒産直後の販売促進部のオフィス その1.

最後になった自分のデスク。この写真を撮っているカメラバッグがデスクに乗っている。

1ヶ月後には殆ど事務機器とゴミの山に成ってしまう。

 営業セクションは会社更生法申請と前後して誕生した労働組合を巡って社員同士が大きく2つのグループに別れていたようだ。純粋にトラッド・アイビー系のファッションが好きで石津謙介社長を尊敬し、今までのヴァン ヂャケットの再建を願うグループと、政治的・イデオロギー的(例えば70年安保の全共闘的?)観点から会社としての再建を目論むグループのような雰囲気だったような記憶があるが詳しい事は判らない。

 このあたりはKent営業部の星・横田哲男氏のNOSTALGIC DIARY=VAN青春日記に詳しいのでそちらを参照願いたい。http://vansite.net/zokuvandiary1.html

 このVAN SITEに連載されているブログの筆者である彼こそ、倒産後のヴァン ヂャケットを再建すべく体を張った同期入社の英雄と言ってよい。子供を二人抱えた生活の為とはいえ、早々に別の再就職先を探さねば成らなかった筆者などは彼に一生頭が上がらない。
 筆者に出来たのは、その後倒産翌年1979年青山三丁目にオープンした店Kent Shop(彼が店長)にディスプレー用の骨董品の手回し蓄音機を提供する程度の事だった。

 こうして完全に退職・退社の全てが終わった日、青山三丁目の本館社長室に石津社長が居られるのを秘書の戸田さんに確認して、お別れの挨拶に伺った。
この日が自分にとって青山のVAN最期の日となった。

 いつもより狭く感じた黒っぽい社長室で石津社長はきちんとした身なりだったが、やはり少し何処かやつれて見えた。
 「おー、君か!長い間お世話になったな、申し訳無い。」石津社長の方から近寄ってきてこう言われたのを記憶している。あわてて「とんでもない、こちらこそ社員の一人として力不足で・・・」と言ったかどうか、そういう感じの言葉を返したと思うが、正直に言うがはっきりとは覚えていない。石津社長の言葉は割りにハッキリと覚えているが、自分が発した言葉に記憶が無いのは一体どうした事だろう?ウワの空だったのだろうか?

 そうして今後の心配など気遣われた後、社長はこう続けた「記念にこの部屋に在る好きなものを持っていきなさい」社長室には大きなメキシコのソンブレロ(鍔広の帽子)飾の剣、大きな英国のタータン柄の由緒を示した地図などなど。どれもが石津社長の永年の交友関係、仕事関係の証であろう貴重なものばかりだった。

 暫く考えて、最期の最期に冗談・ユーモア大好きの石津社長を笑わせてやろうと悪戯を思いついた。で、こういった「この部屋にあるモノであれば何でも良いんですね?」窓の外を向いている石津社長の「あー良いぞ!」と言う言葉が終わるか終わらない瞬間、後ろから石津社長の胴に手を回し持ち上げ・・・られなかったが(あまりの重さに無理だった)「社長を頂いて行きます!」社長は窓のほうを向いたままこう言った「君もか、有難う・・・。」同じ事をやらかしたものが既に居たらしい。VANという会社はそういう会社だったのだ。