2014年7月6日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #49.」  ● 実録高校・学校生活 その5.スキーに関するあれやこれや。

 スキー宿での悪戯は、今考えると結構どぎついモノだったとおもう。大学生に成ったらとても出来ない悪戯だった。まず深夜、生徒の引率・監督で疲れ切った先生方の部屋に忍び込み、廊下の窓の外に沢山ぶら下がっていたツララを折り、先っぽの方だけを先生の布団をめくって投げ込んできた。皆、酒に酔っていたはずなので、まず朝までは気が付かなかったと思う。ツララはものの5分で融けてしまうから、後は濡れた布団をどう勘違いしてくれるかだけだった。
昔は軒先のツララは当たり前の風景だった。

最近は余りツララが出来ないような建築法になっているようだ。

 次に、オデコが異常に広い英語の先生。NHK教育テレビの英語教室にも出ていた先生だが、この先生が寝込んでいる間に、その広いオデコにエアーサロンパスを念入りに吹きかけて来たのだった。どちらもまったく怒られなかったので、泥酔していて全く気が付かなかったのかもしれない。関係ないが、この英語の先生にはBusinessと云う単語を「ビジネス」ではなく「ビズネス」と発音しなさいと言われた。40年くらい経ってCool-Bizいわゆる「クール・ビズ」という言葉が出て来た時に、これがあの「ビズネス」なのだと思った。
ネットでも初期のサロンパスの画像が見当たらない程、時代が経ってしまった。

こういった他愛もない悪戯に明け暮れて、スキー教室は2泊3日で終了したのだった。帰りは山形の駅からだったが、駅前のお土産屋で買った枯露柿(コロ柿=干柿の小さい奴)が東京駅までの途中で全部無くなってしまった。その頃から干し柿が好きだったようだ。10年前から毎年初冬から吊るして作る干し柿のルーツは、実はこんな所に在ったのかも知れない。
多分1965年、二度目のスキー教室、蔵王中央ゲレンデのパラダイスロッジ前で、筆者右端。

1980年代の同じ場所、残念ながら2002年頃取り壊されたらしい。

このスキー教室の次の年に、このブログ6月8日付「団塊世代のヤマセミ狂い外伝#41」で紹介した、苗場スキー場での加山雄三に出遭ったスキーツアーに繋がって行く。この1964年の最初のスキー教室で購入した波多のメタルスキーは1970年の大学に入りたての冬、那須高原のスキー場で雪に隠れた岩に激突した時に折れてしまった。メタル製ではあるものの耐久性ではまだまだ海外の板には敵わない時代だったのだろう。

この後、黒い稲妻トニー・ザイラーの頃の第1次スキーブームから10年、1968年から日本の第2次スキーブームが到来するが、人口の多い戦後のベビーブーム世代(まだ団塊世代という言葉は無かった)の我々の消費力がその理由である事は間違いなかった。ちょうど1968年フランスのグルノーブルで冬季オリンピックが開催され、ジャン・クロード・キリーが回転・大回転・滑降のアルペンスキー3種目すべてで金メダルを獲得3冠王となった事。更にその模様を映画化したクロード・ルルーシュの原題「13 Jours en France―白い恋人たち」とフランシス・レイ作曲の同映画テーマ曲が大ヒットした事もあって、空前絶後のスキーブームとなった。
レコードで持っている13 Jours en France―白い恋人たち、サウンドトラック盤

ネットに出ていた当時の映画ポスター。Googleフリー画像

池袋や新宿、あるいは東京駅からはスキーシーズンともなれば、毎晩のように無数のスキーバスが各地の雪山目指して出発して行った。もちろん当時の高速道路は、スキー場とは関係のない東名高速くらいしかなく、国道17・18号線(上越・信越方面)や国道4号線(東北方面)、20号線(松本・北アルプス方面)などスキー車渋滞は一冬中続いた。4WDの車もスタッドレスタイヤも無い為、スノーチェーンの着脱で何処も渋滞の連続だった。したがって、スキー列車の方がまだ正確なので、スキー場往復には良く夜行が利用された。新宿駅や上野駅の夜行待ちのスキーヤーの列がニュースで報道される事もしょっちゅうだった。

スキー関連の雑誌も急激に発行部数を伸ばし、各メーカー、輸入代理店もシーズンモデルを半年以上前に発表、先行予約会をプロモーション映画などのメディアを用いて開催した。

この後、60歳で還暦を迎えるまで、冬季にはスキー場に数度以上行くのが当たり前の人生だった。40歳以降は仕事の影響もあって、主にスノーボード(アルペン系)に移行したが50歳ころからクロスカントリースキーの魅力にもハマって、再び2本板に戻った。ウインタースポーツは海のウインドサーフィンと並んで自分そのものに大きな影響を与えた非常に奥深い領域になっている。

スキーによる骨折は一度も無いが、エッジで手の甲が切れて9針縫った経験が有る。詳細はこの後大学時代のネタとして出てくる。スキー板は国産の波多メタルに乗った後、クナイスル、ブリザード、ロシニョール、K2、等を経たが、その間スポルディング、ヤマハなども手に入れて使用した。しかし著名なブランドが優れている事は自分で使用してみて良く判った。まず、スポルディングは北海道ニセコ比羅夫スキー場でジャンプして着地した際、頭の反った部分の4枚の積層板がバラバラになって剥がれてしまい、気が付いたら熊笹を咥えて滑っていた。
ブリザードの板は苗場の筍山からの有名なコブ斜面を、スピードを出して数回滑ったら、靴の踵のビンディング後ろの積層板が、全てお互い剥離してしまい使用できなくなってしまった。
 ポパイの表紙になったブリザードのスーパーコンペ、これをラングのとても硬い黒いコンペブーツで滑った。靴を履くのにソックスを履かずに裸足で使用した。雪面をしっかり捕える意味で非常に良かった。これはその後アイスホッケー靴やスノーボードの靴を履く場合もずーっと同じだった。この教えは現ターザン・ライターの内坂庸夫氏のアドバイスによるもの。

国産のヤマハMPXと云う一切木材を使用しないスキーと云う事でデビューした、話題の板を手に入れた事が有った。これは、たまたま大学の卒業制作の油絵を欲しいというヤマハ勤務の方が居て、お金を貰う代わりに当時相当高価だった新製品MPXを貰ったのだった。しかし、この板は白馬八方尾根の黒菱ゲレンデで、休息を取ろうとヒュッテに入る時雪払いの為、2枚の板の滑走面を合わせたらベントが全く無くなってしまっていた。スキーの板はベントが無くなったら回せない。やはり、スポーツの道具は充分にそれを使いこなす人間がデザイン、生産に関わらねば無理だと云う事をこの時知った。この事はその後の仕事に非常に役立つ体験だった。

面白い話がある。青山のヴァンヂャケット(=VAN)に勤務していた時の話。VANの宣伝部には意匠室というVANの匂いとも言える、宣伝関連のデザイン・制作を手掛ける部門があった。基本的には広告や販促物など印刷物やノベルティ・プレミアムと云った立体物の意匠(=デザイン)をクリエイトする部門なのだが、或る時ここにビッターツアーというイタリアのスキー板の表面グラフィックデザイン制作が回ってきた。

これを意匠室のデザイナーがデザインしたのだが、そのプロトタイプのいくつかはまるで使い物にならなかった。理由はスキー板だけの状態ではバランスも良く、店頭で他のスキー板と並ぶと、いかにもVANらしく斬新なデザインに見えるのだが、ビンディングを付けて靴を付けると、肝心なカッコいいデザインの部分が皆靴の下になって隠れてしまうのだった。これなど、デザイナー自身がスキーをしないため、実際の事を考えられなかった典型的な例だと云う事。
樹氷原コースの途中に在る有名なトドマツヒュッテ。1960年代から非常にユニークな建物。

高校時代のスキー教室は2回行われた。翌年1965年も同じ蔵王だったが、雪が積もるのが遅く、行きまで気が気ではなかったのを覚えている。1年前とは違い上達した我々は、トドマツヒュッテ、パラダイスロッジなど蔵王のメインゲレンデへ行き、長い樹氷原コースを通ってスキーの醍醐味を散々楽しんだのだった。


この後は、夏の蓼科高原での広尾高校立科寮での夏季生活のとっておき話に移って行く。