2014年7月20日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #53.」 実録高校・学校生活 その9.修学旅行は一大事。

神戸のメリケン波止場まで名古屋駅から名神高速バスで移動。関ヶ原を昼間通過するのは中学校の修学旅行以来だったから3年振りなわけだ。国鉄東海道線と違って関ケ原付近の高速道路は山側の崖を切り開いて通されていたので左側に座った者は崖しか見えなかったと思う。車中の記憶は全く無い。

神戸に到着すると、船の出航まで30分以上待たされた。もちろん「待たされた」という被害者意識は全く無く、皆との雑談であっという間に時間が過ぎて行った。
我がFクラスのメリケン波止場記念撮影。

A組出航待ちの様子。

洲本航路は関西汽船とこの共同汽船が在ったようだ。この関西ー淡路島の航路に関しては淡路島に関するこのサイトが役に立つ。 http://onogorian79.jimdo.com/

関西汽船の山水丸は昭和時代、天皇皇后両陛下も行幸時乗船された。

 船が出港すると淡路島沿いに南西方向へ進む。常に西側には淡路島の陸地が見えていたのを記憶している。もちろん一度も座席などには座らず、皆でデッキに立ったまま洲本まで行った。 
洲本の宿舎に入ると、新幹線デッキの続きが待っていた。夕暮れ迫る和風旅館の畳の部屋の一番奥に新幹線のデッキの二人が第2ラウンドで座り何かを話し続けたのだった。その時の印象は縁側の籐椅子に座ったクラスメート男女4人がシルエットに成っている情景だ。 
いつ頃のポスターか不明だが、往復日帰り340円と云うのは安い!

洲本の宿舎、旅館名は忘れたが砂浜に近かったと記憶している

それ以上の事は何も覚えていない、映像的記憶だけはしっかりと残っていて音声記憶が無い。これはこれで非常に面白いと自己分析している。

その後、自由時間に男子生徒4人で街中のパチンコ屋に繰り出した。もちろん自動式など当時は発明もされておらず、指で球を入れてレバーで弾くあれだ。淡路島のパチンコは東京の渋谷や恵比寿のそれとは幾分趣が違っていた。
パチンコの玉が銀色に光っていなくて茶色いのだ。要は錆びていたのだ。

当時、パチンコ屋には合計でも5回も行っていない、玉が出てもすぐに飽きてしまうのだ。

当時のパチンコには真ん中にチーリップと言うのが在って、此処に入ると花弁が開き、2個目が入りやすくなっていた。その後このチーリップが3個も付いている台や、全部がチーリップ等と言うお化けのような台まで出現した。
で、このチューリップに玉が偶然2個同時に入るとチューリップは閉じないで開いたままに成る。だからこれを次々開いたまま2個入れ続けるとあっと言う間に沢山玉が溜まるって寸法だ。
真ん中下部がチーリップ。これが開くと玉を2個以上同時に発射し、2個入れようとした。

しかし筆者の性格は単純に同じ事を続ける作業には向いていなかった。これは昔も今も同じだ。先の予想が見えている事をただ単純に続けるのは根気がいる。

この根気が普通の人の半分も無いのだ。だから小学生の時の通知表に「落ち着きが無い、一つの事を続けようとしない、好きな事にしか目を向けない」10歳にして我が性格は先生によって見事に見抜かれていたのだ。

ヤマセミを辛抱強く待つのはこれには該当しない。何故なら今日のヤマセミは2羽で来るかもしれないし、何か珍しい生態を見せてくれるかもしれないという期待が在る。パチンコはせいぜいチューリップが開くだけだろう? 
 
だからこの時もパチンコ屋には15分も居なかったと思う。スッてしまったのか、チョコレートを取って凱旋したかどうか覚えていない。こうして新幹線の中の緊張の2時間立ち話が効いたのか、初日の夜はアッという間に爆睡に入ったようだ。

翌日は鳴門海峡の渦潮を観て徳島側、つまり四国に渡り高松の屋島まで移動する行程だった。この渦潮を観るには干満の潮時が重要なので、淡路島側(=今の南あわじ市)で時間調整の為随分待たされた記憶がある。
好きな時に行っていつでも見られるわけではない鳴門の渦潮。

だからこの時の皆の記念写真は殆ど海ぎわで撮影されたものが多い。徳島側に渡って屋島までの記憶が無いと云う事はバスの中で爆睡していたに違いない。当時の屋島にはケーブルカーが在って麓からこれで行けたのだが今は無いらしい。
屋島ケーブル、もう今は営業していない。本数が少ないので団体には使用できない。

此処での記憶は夜に成って頂上の土産物屋などを漁っていて、関西からの高校生達と喧嘩になった事ぐらいか。
誰かが因縁を付けられて「わりゃ、河内モンをナメとるんか?」と凄まれたのだが、実は我々は誰も河内と言う所が何処に在るのか知らなかったのだ。思わず「河内って何処にあんの?」と訊いたのが拙かった様で、相手がブチ切れてしまった。
 
相手の5人が腕をまくって凄んだのだが、こちらはちょうどA組、D組のデカい方の連中が戻って来た所だった。
何だ何だと寄ってきて、あっという間に20人以上がこの河内の高校生の周りを囲ってしまった。ちょうど高さ170cmの丸いリンクが出来てしまった訳だ。

こちらは殴り合いの喧嘩の経験など、まず無い渋谷の軟派な高校の男子だったが、相手も20対5ではどうしようもなかったのだろう、5人で身を寄せ合って喧嘩言葉で吠えてはいたが、それ以上に進展する気配はまったく無かった。しかし関西人の喧嘩は良くしゃべる、罵る、脅す。弱い犬ほどよく吠える・・というのは全くその通りだと思った。

しばし一方的な関西弁の脅し言葉だけが聞こえる睨み合いで膠着状態が続いた。

その後、我が校の普段無口で一番体格が良い奴が、低く太い声で「よし判った、皆手を出すなよ?」と言って学生服を脱ぎ、横に居たクラスメートに静かに手渡した。そうして靴と靴下を静かに脱いで裸足になった。

これを視て、散々喧嘩口上を述べていた河内の5人衆はピターッと完全に黙ってしまった。とにかく関西人独特の早口で良く喋る喧嘩口上が一瞬にして止んだ訳だ!

結末はもの凄く静かな雰囲気の中、少し丸い輪を解いてやって河内の5人衆を黙って帰したのだが、その数秒後20名ほど全員で夜空に向かって大笑いしてしまった。

てっきり我々も、靴下と靴を脱いだ奴が武道の有段者で、喧嘩の心得が有ると思っていたのだが、そんなもの全然無くて全てハッタリだった事が判ったのだ。

その体格の良い奴は、それまで喧嘩の場に2度ほど出食わしたが、黙って履物を脱いで揃えるだけで相手が勘違いしてビビッてしまう事を経験し、味を占めたのだという。
もちろんそれ以来、彼の仇名は「河内モン」となった。彼は築地の魚問屋の倅なので、殴り合いの喧嘩そのものは自分でした事が無いが、包丁を持っての大人の喧嘩口上や殴り合いは子供の頃から散々見慣れていたのだという。

実はこれで終わりで、この喧嘩の後、全員直ぐに宿に戻った訳ではなかった。

そもそも買い物などする気は殆ど無く、本当の目的は隣の旅館の従業員の若い仲居さんが女風呂に入るのを覗きに行ったのだった。あいにく時間が悪く誰も風呂に入って居なかったので、一旦戻って来た途中先の事件になった訳だ。

こちらはそのまま宿に戻ったが、2~3人がワイワイ言いながら再び覗きに行ったらしい。翌朝起きてその成果を聴いたら重たい口調で「酷いもんだよ!視なきゃよかったあんな婆さん!もう俺たち立ち直れないかも。」と相当落胆していたようだった。その後旅行中この話に触れると、彼等の口数が極端に少なくなってしまう。このショックはしばらく後を引きそうだった。

この翌日、栗林公園に行く日の朝は、朝食も早々に宿を出るのが非常に早かったのを覚えている。
何せ、朝から栗林公園⇒船で小豆島(寒霞渓まで上がる)⇒小豆島泊、翌朝また船で姫路へ移動⇒姫路城を観た後バスで京都へ移動、清水寺を観て⇒夜遅く夜行の日の出号に乗る。

これがこの後の行程なのだ、もの凄く小刻みなのだ。2日目が鳴門の観潮だけと云うのに比べてあまりに偏り過ぎた行程だと思う。旅行代理店のプランナーが自分で実際このコースを回っていない事は明らかだった。瀬戸内海が荒れて船が出なかったらどうなっていたのだろう?プランBなど考えていないに違いない。

栗林公園の案内図

栗林公園ではまた新幹線の彼女と並んで二人で歩いていた。低い松の木の並木道を歩きながら、あまり会話は無かったように思う、其れまでに語りつくしたのだろうか。
しかし40年経って、たまたま岡山大学へ行ったとき足を延ばしてこの栗林公園に行ってみた。
非常に驚いた事が有る。記念撮影した場所に行ってみたのだが、背景の樹木が殆んど昔のままで全く変わらないのだ!
自分は40歳年を取って60歳近くに成っていたにもかかわらず、樹木たちは手入れが行き届いているせいか、帰ってパソコンで昔と今の写真を見比べてみても、ほぼ昔のままの姿・高さ・だった。これは相当ショックで、自宅のパソコンのモニターの前でしばし呆然としてしまった。
1965年当時の記念撮影、後ろの樹木の配列や髙さに注目願いたい。

 2008年に再訪した時の同じ場所。座っている場所も上とほぼ同じ栗の形の看板のあたりに座ってみた。後の樹木がほとんど変わっていない事に驚くだろう。右端の髙い樹だけが無い。

この先の小豆島・姫路城・京都の記憶に関しては、此処までの内容を超える面白い記憶が無いので述べない。ただ疲れ切って帰りの夜行の日の出号車内で、仮眠のつもりで網棚のネットをハンモック代わりに寝たら、品川駅までそのまま寝続けてしまった。これって、中学の修学旅行時と全く同じではないか。