2014年7月12日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #50.」 実録高校・学校生活 その6.都立広尾高校立科寮。

全ての都立高校に在る訳ではないが、都立広尾高校には長野県蓼科に山の家というか、合宿所の様な寮が在って夏の間は管理人さん夫婦が住んでいた。
この蓼科(たてしな)と立科(たてしな)が一体どう違うのかと云うと、話は少し長くなる。現在蓼科と表記するのは長野県茅野市の領域で、立科と表記するのは立科町と云う同じく長野県の北佐久郡の領域になっている。どちらかと云うと立科の方が北側の丘陵地帯で、蓼科表記が蓼科山附近と言えるだろう。しかし元々この二つの表記は同じなのだ。蓼科の「蓼」の字が当用漢字に無かったので、「立」を使用したと言われて居る。

明科、蓼科、立科、浅科、豊科など長野県には「科」の字が多いのは、「科=しな」は「階=かい、しな」と同じで段丘地形や斜面の地名によく利用される漢字。いずれも新潟に流れ出る信濃川の支流だが、上流部の千曲川や犀川(=梓川)が長野県内を流れている。この流域は河岸段丘が非常に発達していて「科」や階段の「階」に当たる場所が非常に多い所なので、この字のつく地名があちこちに在ると思われる。山階鳥類研究所の「山階」も、元々は皇族・山階宮様がルーツなのだ。山の斜面=「山階」で野鳥にご縁があるのも納得がいく。

出だしから話が逸れたが、とにもかくにも、公立の学校にしては非常に珍しく、我が広尾高校には長野県立科町に山の寮が在った。残念ながら2010年位に予算削減のあおりを受けて、維持管理費を払えず取り壊され、廃止になってしまった。都会の学校の高校生が通常授業では得られない自然界の脅威と素晴らしさを学ぶには最高の施設だった。この話を聴いたときには、なんて事をするのだと言いたかったが、既に後の祭りだった。今どきの教師たちの質の低さが具体的に露呈した事実なのだろう。あまりにも夢が無さすぎる!
1964年当時とは違って綺麗な建物になっていた、何と電気が来ている!2008年撮影当時の画像だが、今はもう取り壊されて影も形も無い。

こちらが研修・宿泊棟と思われる。当時と異なって樹木が伸びて、眺望が全くなくなっていた。昔は宿泊棟の裏窓から浅間山が見えていたような気がする。 2008年撮影

この蓼科寮は望月から白樺湖へ向かう1本道を、ボンネットバスに乗って行く。そう簡単には行けない本物の信州・山奥だった。雨境というバス停の直ぐ上から雨が止んだり、あるいは逆に降ったり、天候が急変する場所があり、大自然の不思議を身をもって体験させられた。1964年、つまり昭和39年当時は小諸から未舗装の道でずいぶん時間が掛かった。蓼科寮に着くと、まず地理の説明をされた。道に迷っても西へ行けば道路や牧場に出るが、東に迷い込んで行ってしまうと、森林地帯が50kmも続き、熊も出るので、まず生きては戻れないだろうと脅された。

当時未舗装の県道40号線(小諸―白樺湖線)には1日2本のバスが通るのみで、1968年にクラスメートと訪れた際も全く一緒だった。この時は日中蓼科牧場で過ごした後、白樺湖へ行くのに営林署のジープを停めて乗せてもらった程。この50年間の日本の交通インフラ整備はものすごい勢いで進み、秘境と云う名の付く場所は何処にも無いのが実情だ。
未舗装の街道を行く当時のバス、望月から白樺湖まで1日に2本しかなかった。

別の組のメンバーが乗ったバスが路肩から脱輪して傾いた。道路が狭くてすれ違う時に、こう云う事はしょっちゅう起きたようだ。熊本流にいえば離合失敗? クラスメートより拝借画像。

広尾高校の寮はこの県道から約500m入った所に在って、県道に立っていた立て看板を見なければ、まず通りすがりの人には判らない入口だった。其処を入るとしばらくして右側にモウセンゴケ等の食虫植物が群生する湿地帯が在ったが、今はもう無い。さらにその奥20mm右側に木造平屋建ての寮が在った。
小諸ー望月ー白樺湖線の県道(=未舗装)から広尾高校寮までの道も未舗装。 級友撮影

まず、この寮には電気が無かった。明かりはランプだ。つまり陽が昇れば起きて、日没後は早く寝るのが此処での生活の基本だった。夏の朝は早く、夜は遅かった。何も明かりが無くても午後7時半頃までは何とか物が見えた。7月初めの九州であれば夜8時過ぎまでモノが見えようが、信州では30分ほど日の暮れるのが早いのだ。
コンセントも明かりも無く、ランプしかなかった。標高が高く蚊はいなかった。 A組画像。

標高1200m位の高原だから夜は暑くない。廊下に敷いた布団に横になっても、満天の星を見ながらいつまでも起きていた。持参したトランジスタ・ラジオの選局ダイアルをゆっくりゆっくり回していくと、出力の大きい中国や韓国の放送、モスクワの日本語放送が入る。同時に名古屋、大阪の放送が入って来て日本中、更には世界中の放送が入って来るのに驚き、いつまでも片耳イヤホンで聴き入った。定期的なパルス信号の様な雑音が入る所もあって、勝手に人工衛星テルスターの発信音だと思い込み一人で興奮した。それが聴こえなくなると、人工衛星が地球の裏側に回ったな?と決めつけた。しかし、後で人工衛星の発信音はAMラジオなどには入らない事を知って、少しがっかりした。
祖母のトランジスターラジオを借りて持って行った。夜に成ると日本中の放送が入った。

1962年頃大ヒットしたTornados(=トルネイドース)の「Telstar=テルスター」は、世界初の通信衛星テルスターの事を題材にした曲で、宇宙との電波通信音を初めて効果音として音楽に取り入れた英国のロックバンドによるもの。米国でも全米ヒットチャート1位を3週間続けた。当時日本のディスクジョッキーはこのトルネイドース(竜巻の意味)の発音が解らず、トーナドースなどと紹介していた。
テルスター(トルネイドウズ)= https://www.youtube.com/watch?v=ryrEPzsx1gQ&nohtml5=False

この夏の合宿時に、初めてカラー写真と云うモノを撮った。当時のカラーフィルムは12枚撮りで、非常に高価だった。もちろんD・P・E、つまり現像・焼きつけも、1枚当たりモノクロ写真の10倍ほどした。クラブ活動で写真部に属する同級生に、夜明けの空の綺麗な写真を見せたら「全然ダメ!」と相手にもされなかった。多少ショックを受けたものの、いつか腕を上げて見返してやると心に誓ったものだ。50年経ってそいつに野鳥の自費出版写真集を贈ったら、今は特に写真を撮っている訳でもなく、只の普通の人になっていてちょっと拍子抜けだった。
この時は、朝焼けの写真以外、カラーではモウセンゴケやオニアザミ、トリカブトなど綺麗な色の花などを撮った。
当時のカラーはこんな感じだった。 Googleフリー画像より


1年生の蓼科林間学校は、男子と女子が別々の日程スケジュールで実施されたため、男子校の様な2泊3日だった。近くの河原で飯盒炊爨(はんごうすいさん)をやったり、蓼科山(2,531m火山)登山を行った。広尾高校寮の西側は植林されたばかり(~と言っても10数年は経っていたと思う)の斜面だったが、40年後に再訪した時には完全な森になってしまっていて眺望は全くなかった。
女子達の記念撮影。後ろのエリアは今や髙さ20m以上の森。 クラスメートより拝借画像。

寮の裏の丘の植林地帯 1964年当時

上の画像とほぼ同じ場所の50年後

寮の敷地から観た当時の蓼科山 当時は熊も出たエリア。

2011年に撮影した白樺湖からの蓼科山。下は白樺湖、このエリアは野鳥の宝庫。

 ある時管理人さん夫婦に呼ばれて、管理人さんの住居棟に行くと、羊の肉が1kg有るんだが誰も食べないのでどうぞと云う。「えっ?良いの?」と言って焼いてくれたそのジンギスカン用のラム肉をあっという間に食べてしまった。そうしてその夜の夕食は夕食できちんと食べた。当時自分が一体どういう食欲をしていたのか、思い出しながら怖くなった。

 実は羊の肉はその時生まれて初めて食べたのだったが、全然臭みも感じず美味しかった記憶が有る。我が両親は「羊の肉なんて臭くて食べるもんじゃない・・。」と言っていたが、貰ったDNAに何処か間違いが在ったのだろう、沖縄の山羊料理だろうが、パリの鳩料理、兎料理、熊本の馬肉、鯨、鹿、何でも問題なく美味しく食べられる。神様に感謝!

戦後日本で食された羊は綿羊(めんよう)と言って、本来毛を刈るのが目的の羊だから、肉は硬くて臭くて不味いようだった。しかしその後、食用専門の美味しいラム肉が普及し、マトンと共に随分ディナーの主力になった。自分も社会に出てから仕事柄、国際イベントを沢山手がけたが、イスラム教の人々は豚肉が御法度、インド人は神様である牛を食べない。したがって世界の国際会議会食で一番多用される肉は宗教上の理由で嫌われない鶏肉とラム肉が多いのだ。


この蓼科の広尾高校寮には高校卒業後の予備校兼、美術専門学校に在学中、F組クラスメートと一緒に再訪し、美ヶ原で1年後輩の女子達と待ち合わせ、合同ハイキングを行った。1泊だったのか2泊だったのか記憶は定かでないが、詳細はしばらく後のブログでご紹介。