2023年7月22日土曜日

団塊世代の大恩人、木滑良久氏が亡くなってしまった。Yoshihisa Kinameme, a great benefactor of the baby boomer generation, has passed away.

  いろいろな著名人の訃報がメディアに載ることが多くなった。団塊世代が子供の頃は著名人の訃報を知るのはTVのニュースくらいだったろうか?昭和の時代に、毎朝新聞の死亡通知欄を見ている子供・若者はよほど変わった奴だったもの。

 当時の長谷川町子の漫画「意地悪ばあさん」にこういうのがあった。「新聞を見るにもいろいろな人がいる。テレビ欄からまず見る人。株の欄を見る人。もっぱら中に挟まれたチラシを見る人。そうして死亡欄を丹念に見る人。」この朝一番で死亡通知を見る事は重役秘書・議員秘書の朝一番の重要な仕事だと学んだ。

 今のようにパソコン・スマホのSNSやEメールがなかった時代。訃報は儀礼の第一歩で逃してはならない重要情報だったのだ。昔は紳士録(財界・政界・他の著名な人物名簿)なるものもあった(2007年廃刊)が、個人情報管理が厳格化されたうえ、ネット情報が普及し始めたので無くなった。

 そんな中、そういう時代昭和30年代~21世紀に至るまでの間、戦後のベビーブーマー(=団塊の世代)を引っ張ってきたマガジンハウスの木滑良久氏(通称きなさん)が亡くなってしまった。93歳だから大往生と言って良いだろう。しかしそんなにお歳だったの?


 公私に渡りこの方には大変お世話になったし、ものすごく影響を受けた。

 しかし、VAN同期で宣伝部に入った内坂庸夫君などは実の父親のように慕っていたから、訃報を聴いて筆者以上に相当参っているだろう。

 今は海外取材中のはずだから、海の向こうでショックを受けているかもしれない。あるいは既に今日この事が在るのを知っていたかもしれない。

 その内坂君がVANの宣伝部から、読売新聞の「SKI LIFE」というスキーに関するムック本の編集スタッフとしてマガジンハウスの前身・平凡出版に出向したのが1976年頃だったろうか?

 このSKI LIFEこそ、その後のMade in USAに繋がる日本の団塊世代へ新しいアメリカの西海岸文化風俗を紹介するバイブルだった。

 この本の編集者寺崎央氏やイラストレーターの小林泰彦さん、もちろん内坂君もそのまま1977年4月に定期刊行雑誌になるPOPEYE(=雑誌ポパイ)の制作スタッフとして団塊世代の文化風俗を引っ張っていくのだ。

 VAN同期のよしみ、一緒にVanguardsというアイスホッケーチームメンバー、共にスキー大好き人間として波長が合ったのだろう、幾度かマガジンハウスの各雑誌編集に参加させていただいた。

 雑誌POPEYE(=自転車特集、オーストラリア取材、ボートショウ特集) 雑誌OLIVE (=創刊2号ハワイ・ウインドサーフィン特集)、TARZAN (=オレゴン州コロンビアゴージ・ウインドサーフィン特集)雑誌OLIVEでは一時期ウインドサーフィン記事の連載を担当させて頂いた。

ハワイ取材ロケに2週間参加したオリーブ創刊2号・ハワイウインドサーフィン特集。

 ウインドサーフィン特集の扉ページに筆者の写真を使ってもらえたのは嬉しかった。筆者にとって生まれて初めて自分の撮った写真でお金を頂いた仕事だった。

 筆者はもちろんマガジンハウス社員ではなかったが、銀座一丁目の広告代理店に勤務しながら、社外スタッフとして10分歩いて東銀座のマガジンハウス社へ忙しいときは毎夕通った。もちろん出入りはあのガラスドアだらけの正面玄関ではなく、裏の小さなエレベーターだ。片岡鶴太郎や多くの芸能人ともこのエレベーターで一緒になった。

 雑誌社は昼間~夕方は編集部フロアに人がいない。皆取材に出払っていて閑散としている。暗くなるまでの間、編集部にはほとんどスタッフがいないが、外部スタッフは打ちあわせのため、あるいは原稿書きのため明るいうちから編集フロアに顔を出す。

 そんな時、木滑さんがふらっと編集部に顔を出すことが時々あった。

 20歳近くも歳が上なのに、我々団塊世代のやること成すこと、興味を持つことにえらく精通していて年齢差を全く感じなかった木滑さんを1985年頃驚きながら見ていた記憶がある。

 筆者は社員ではない(一般の社員といっても契約スタッフが多かった)ので、出しゃばってあーだ、こーだは言わなかったが、広告代理店に勤めているという事でだろうか、時にはいろいろ根掘り葉掘りスポーツ、ファッション、文化などについて訊かれたものだ。

 筆者が元VAN社員でオールディズ・レコードのコレクターだったし、サッカー、スキー、アイスホッケー、ウインドサーフィン・・と仕事以外の守備範囲が広かったのを知っておられたからだと後でスタッフに聞いたことがあった。

 こういう程度の距離間でお付き合いは結構あったが、一度筆者がハワイのマウイ島でウインドサーフィンの国際大会を運営しオアフ島へ戻る際、カフルイの空港でバッタリ木滑さんとマガジンハウスの重鎮3名、計4名と鉢合わせしたことがあった。こちらはH堂の営業メンバー(木滑さんたちとはまったく面識がない)も一緒だった。

 広告代理店H堂に移っていた筆者を知っている木滑さん「まずいなぁ、おいシンジョー、今ここで見たことは絶対に内緒な?頼むよ」もちろん残りの3名(通称ジローさん、犬のおまわりさん・・など)も良く知っているので「了解です、ところで貴方がたはドナタデスカ?」とやったら大笑いしながら「サンキュー、サンキュー」と言って去っていった。

 訃報に接してこうした1980~90年代の木滑さんの想い出が走馬灯のごとく回るのだった。

 その功績は今後いたるメディアで報道されるだろう、一個人がここで解説するつもりはまったくない。

 ただただ、18歳も年上ながら団塊世代と同じ空気の中で公私ともに大きな影響を受けた偉人・恩人として、いつまでも筆者の脳に刻まれ続けるだろう。R.I.P