我が家では、自分が子供の頃から元旦ほか国の定めた祝日に日の丸、つまり国旗を掲げて来た。これは招集軍人だったとはいえ、江田島の海軍兵学校で教官(あの『坂の上の雲』で有名な秋山真之の後輩)をやっていた理由に寄るのかもしれない。
しかし、その父が亡くなって以降、元旦にしか掲揚しなくなった。理由ははっきりとしている。国の祝日が三連休を造るだの、新たに意味不明の祝日を連発したため、確固たる制定理由があってこその国家の休日が、コロコロ変わったため「権威」も有難味も全く感じなくなった事による。
その数少ない元旦の国旗掲揚をついに今年からやめた。日本という国が国旗を掲揚するに値しないのではないだろうかと思い始めたからだ。勿論今後納得すれば以前のように掲揚もしよう、しかし今のままでは残念ながら国旗を掲揚する気にならない。
理由の最初はまず、政治家に対する不満。一代前の総理大臣は嘘を言い過ぎたし、隠し事をし過ぎたと思う。昔、子供に「ウソをつくと泥棒に成っちゃうよ!」と諫めたものだが今や「ウソをつくと政治家と同じって言われちゃうよ!」の時代に成ってしまった。
次にお巡りさんや学校の先生の婦女子・生徒への性的犯罪の多さ。昔は闇に葬られた恥ずかしい犯罪がメディア報道・SNSの拡散、誰もがスマホで証拠画像や音声を録れる時代になり隠せなくなったのだろうか。政治家の不祥事やウソ答弁もしかりだ。
よくアメリカの民家や墓地に行くと小さな星条旗が沢山飾ってある。これはアメリカという国が多人種・他宗教混成による合衆国なので、異文化・異宗教・異習慣をまとめる唯一の共通シンボルが星条旗しかないためだと教わった。日米では国旗に対する考えが良い悪いではなく根底から違うのだ。
二つ目がスマホの普及・発達に日本の国・政府なり社会が追い付いていないため、日本独自の文化習慣が壊れつつ、国旗掲揚の意味も煙のように消えつつあると思うからだ。
スマホを持っていないとコロナ禍で予約制に成った公園に入れない(アプリを入れて所定の手続きが無ければ入れない時期があった)、スマホを持っていないとワクチンを受けにくかった、予約しずらかった・・・などなど。スマホを持っていることが前提の社会制度を何の予告も法律も制定しないまま、突き進んだのだ我が国の政府は。いつの間にかスマホは持っているのがアタリマエ、持っていない人の方が少ないのだから、持っていないのが悪い・・と、してしまった。メディアもこのおかしな点を全然追求しない。
我が大学の同級生に家にTVも持たず携帯電話(ガラケー)すら持たず、唯一のコミュニケーションIT機器がラップトップPCと固定電話機いう御仁が居る。
そのPCも日に何度も開くわけではなく、気が向いた時だけ開く。したがってこちらからEメールを打っても返事は翌日以降なんてのはざら。緊急の場合は音声電話(家の固定電話)しかない。
筆者は大嫌いで使っていないが、スマホのLINEのように連絡が来て、即反応(=レス)が無いと訝しがられるような刹那的な生活は全然していない。
そういった主義で仙人のような生活をしても良いが、前出の様な国の疾病対策や公共サービスをスマホが無いばかりに受けられない、PC・ネットが普及し始めた頃のデジタルデバイドのような状況に成る人々がいるという事を、我が国家は意識しているのだろうか?
スマホに関しては、その当初から嫌悪感をもって見ていたが、ついに筆者も昨年6月この先3G廃止情報を見てガラケーからスマホに替えた。替えたが相変わらず音声通話とショートメール、歩数計程度しか使っていない。
この正月はスマホを持って初めての正月だ。その正月にこういう事を考えFacebook仲間にはこのように投稿した。
『物心がついた頃、家の電話は黒いダイヤル式だった。時計は大人になった証で腕時計を誇らしげに腕に巻いて、用も無いのに数分毎に眺めたものだ。当時腕時計はステータスシンボルの一種でもあった。鉄道の駅には必ずチョークで書く伝言板があり、人々のプライバシーは赤の他人に丸見えだった。