2019年2月12日火曜日

緊急投稿!団塊世代は堺屋太一さんの訃報に心から哀悼の意を表したい。Urgent post ! I am the baby-boomer generation would like to express my deepest condolences to the death of Mr. Taichi Sakaiya.

 訃報!堺屋太一さんが亡くなった。残念至極!

 堺屋太一さんが1976年総合月刊誌「現代」に連載し、その後単行本としてまとめられた「団塊の世代」という小説のタイトルが戦後のベビーブーム(1947~1950年の間)に生まれた子供たちの総称としてメディア・マスコミにこぞって使用された。

 その後マスコミ用語から一般用語に定着し40年以上使用され続けている「団塊世代」という言葉の彼は生みの親だった。
https://mainichi.jp/articles/20190210/k00/00m/060/052000c?inb=ys
※しかし、毎日新聞も朝日新聞、さらには文春も詳しいエピソードなどのネット記事が皆有料に成るってのは一体何なんだ?腹が立つ。元のネタは一社独占でもないのに、こんなものに課金すると新聞そのものの購買数が減るのは眼に見えている・・・と、あの世で堺屋さんが言っている様な気がするが如何だろう?

「団塊の世代」あるいは「団塊世代」

 メディア・マスコミはどれだけこの言葉のお陰で助かった事だろう。それまでの「戦後のベビーブーム世代」だの「終戦後の2~3年間に大量に生まれた子供達」だの長ったらしい表現を「団塊世代」という四文字熟語のように統一してくれたのだから・・・。

 まさに筆者がそのど真ん中1948年12月(昭和で言えば23年)生まれで「団塊世代」の全ての事象体験をし、同世代と競争をし、同時に大きな影響を受け現在70歳に至っているので「団塊の世代」という言葉には、なんとも言えぬ愛おしさと強い想い入れがある。

 勿論、1976年当時の「月刊誌現代」連載中には読んでいなかったが、単行本に成って出版されて直ぐに買って読んだ。自分を重ねながら3回繰り返して読んだ。当時、筆者は東京青山のアパレル企業、石津謙介社長の「ヴァン ヂャケット」の社員だった。その後倒産するヴァン ヂャケットは、既にその頃会社の屋台骨が揺らぎ、社員の一人として会社の行く末に大きな不安を感じて日々を過ごしていた時期だけに、「その先を読んで誰よりも速く対策を講じておく」という考え方に非常に強い感銘を受けた事を覚えている。
 これ以降、彼の言動は自分の生き方、モノの考え方に大きな影響を与えるものとなった。

 その1年前のデビュー作「油断!」という石油ショックを題材にした小説は、「団塊の世代」の後読んだ。当時の大蔵省官僚が書いた本とはとても思えなかったが、「想像や推論・私論」ではなく統計数値等データを駆使し、理工系の卒論のような「数値・事実や証拠」を挙げての論法は目からウロコだった。これはその後における筆者のモノの表現方法、広告代理店時代においてのプレゼンテーションの手法に大きな影響を与えてくれたものだ。

 1983年頃、一度彼の講演会に出席したが「1か月後や3か月後の天気予報は過去のデータを見て予報すれば間違いなく当たりますが、明日や明後日の天気の晴れか雨かを間違いなく予報するのは非常に難しいのです。経済や株の予想も同じです・・。」の一言にも感銘を受けた。

 これから先の日本は情報化が凄い事に成ろうと予言していた彼は、2000年に「インパク!」というインターネット中心の博覧会を後押しした。通信インフラが未だ不十分で、ブロードバンドが全国的に一般普及していなかったのと、展開そのものがバーチャルであるネットの世界だけでは、リアルな実世界が無いと一般人には博覧会という楽しい臨場感が全然感じられないという理由で「インパク!」は事実上大失敗に終わってしまった。

 インパクのメインサイトには凄いアクセスがあったので、大成功だった!という関係者もいるようだが、アクセス数など裏でいくらでも操作できるので、何億アクセスがあろうと全く信用成らない。

 目立ちたがり屋の典型、糸井重里などが中心で騒いだだけの「空耳アワー」のようなものだったようだ。堺屋さんが関わって唯一失敗した事案だろうか。当時大手広告代理店に居たのでこれの裏側を良く知っている。その内容などをアーカイブで現在十分に閲覧できないのが失敗に終わった何よりの証拠だろう。

 喜んで進め評価しようとしたのは、新し物好きで今でいう「意識高い系」の大手広告代理店の若手メンバーばかりだった。筆者が印象に残って居るのは、ITを「そのイットって何だ?」と訊いた、時の総理大臣・森喜朗の酷さばかりだ。
インパク記者発表 Googleフリー画像から。
ご参考: http://www.itmedia.co.jp/im/articles/0202/01/news001.html

 しかし、これだけではなく筆者と堺屋太一さんとは作家とその読者というだけの関係でとどまらず、ほんの少しだが直接の接点があった。

 その後数年経って、大手広告代理店に勤務していた2007年にNHKの番組制作のサポートをしていて、内々にNHK総合TV「日本のこれから」に出演依頼が来た。堺屋さんがゲスト出演されるという事で連絡をくれたディレクターに「お金を払ってでも是非出たい!」と答えたのを覚えている。
NHK総合「日本のこれから」 Googleフリー画像より




NHK総合TV「日本のこれから」データ。NHKのホームページより。


 このスペシャル放送は生放送だったので、渋谷のNHK放送局に夕方4時頃から終了後の11時頃まで缶詰めだったのを覚えている。この時の放送は録画していないが、終了後、携帯電話に着信が18本、自宅に戻ってパソコンのメールが23通も来ていたのに腰を抜かした覚えがある。東京はもちろん長崎や熊本・沖縄の知人・同僚・クラスメート達から「観ましたよ!」の嵐だった。小倉の小学校時代のクラスメートから「お前?」と何処で今の住所や連絡先を調べたのか45年振りに連絡をしてきた者まで現れたにはビックリした。

 生番組なので、どうなるか不安で家族以外には誰にも教えていなかったのにだ・・・。メディアの伝達力とそのスピードとNHK総合テレビの威力に改めて驚かされた一瞬だった。

 この番組は9時のニュースを挟んで前半と後半に別れていた。この合間は休憩時間だったが、あらかじめ持って行っていた文庫本版の「団塊の世代」に堺屋さんのサインを頂いた。

 他の一般出演者が同じくゲストの谷村新司さん等に群がったり、番組中団塊世代の悪口を言った慶応大学の金子勝とかいうタレント教授をつるし上げている間、色々堺屋さんに質問が出来た。要点は二つ。「1947年~1950年のたった3年間に生まれた団塊世代の人間と、それ以外の全年代の人間を二手に分けて意見を言い合わせるってのはどうかと思いますが・・。」という事と、「是非、団塊の世代がリタイヤ後己の死に直面するまでの予想を書いて頂きたい。」と。

 これに対する返答はこうだった。「まったくその通り、同感です。僕もねぇタイトルにある『団塊の世代』という言葉に関して責任があるのでこうして呼ばれているのだけれど、この企画はちょっと強引で無理がありますねぇ」だった。
 もう一つの質問への答えは簡単だった。「僕はもう良いから、当事者の貴方がたがどうなりたいか、お書きになるべきだ。」しかし、東大出で固い官僚だったという雰囲気は全くなく、関西人特有の人懐こくて非常に近づきやすい人という印象が強かった。

 実はこれがこのヤマセミ中心の野鳥ブログの合間、週末に書いてアップした「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」を始めるきっかけだったのだ。

 ご参考
http://yamasemiweb.blogspot.com/2014/02/true-story-after-retirement-of-japanese.html

http://yamasemiweb.blogspot.com/2014/01/blog-post.html

http://yamasemiweb.blogspot.com/2014/01/this-is-real-story-of-japanese-baby.html

http://yamasemiweb.blogspot.com/2014/02/do-you-know-what-baby-boomer-was-other.html

謹んで堺屋太一さんのご冥福をお祈りする。「有難うございました」