2015年1月24日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #92.」 ヴァン ヂャケットの社内でのエピソード、その2。

ヴァン ヂャケット社内での数々のエピソードはKent営業の横田哲男氏の青春VAN日記に詳しいので、こちらは販売促進部内での事中心に幾つか拾ってみようと思う。

 入社して1年経つか経たない頃、人事部に配属された横国大同期の藤代君から石津社長のテレビ収録が山中湖のヴァンガローであるので参加するように連絡が来た。どういうルートで行ったのか記憶は定かではない。ひょっとすると往路は藤代氏の車に乗って行き、帰りは社長室秘書の戸沢さんのフェアレディに乗せられて戻ったのかもしれない。このフェアレディはマニュアル車で何度もエンストを起こし、何度もムチ打ちのようになったのを覚えている。それが車のせいなのか運転者のせいなのかは良く判らない。

 石津社長の別荘でもあり、ヴァン ヂャケット社員が許可を得て利用できる保養施設のようにもなっているヴァンガローに到着してみると、既に石津社長ご夫妻が滞在されていた。ご挨拶申し上げると、石津社長は既にVANMINIのキャンペーンの事をご存知で、最初の「妹のスミ子がお世話になっているらしいね?」と言って全てお見通しだよ?と到着早々プレッシャーを感じてしまった。とにかく石津社長は細かい事を良く覚えていて、記憶力に関し彼以上の方を上げるとすると皇族様しか思い浮かばない。
ヴぁん雅楼とも書くらしいヴァンガロー  VAN SITEより

ヴぁん雅楼入口で、別名モビーディックとも呼ばれていた。人事の武宮さんと筆者。

 私が知る限り皇族の方々は、お会いになった方の名前と顔、お会いになった理由を一瞬にして記憶する術を身に付けておいでだ。物凄い記憶力ですね?と故寛仁親王殿下にお話したら、事も無げに「これが私の仕事だから・・・」と仰ったのが昨日の事のように思い出される。石津社長は、ほぼ同レベルの記憶の持ち主だと思った。
 その石津社長ご夫妻の一日だか別荘ライフだかを収録にテレビ局が来て居たのだと思うが、その仕事エリアには立ち入らないようにして、夜の食事とその後のベランダでの会話をご一緒させて頂いた。その様子も収録対象だったのか否かは、まったくを持って記憶に無い。
別の機会に販売促進部全員で訪れた際のリビング

ダイニングでくつろぐ軽部CAP

 石津社長がキッチンで玉葱を炒める所から収録があった。我々の居る居間にまで流れ込むその香ばしい匂いがまだ脳裏に残っている。玉葱を何度も混ぜながら、本当は一晩置いたほうが良いんだ・・・。と解説をされたのを覚えている。数時間経って完成したお手製のカレーをご馳走になった。未だにあのカレー以上のモノには出逢えていない。インドカレーのマハラジャ、だろうがデリー、だろうが、北海道のスープカレーだろうが味の奥行きが違うように感ずる、ナンではなく黄色いプラオライス(あるいはサフランライス)だったと思うが、お代わりした記憶がある。

 カレーと言えば誰もが「自分はカレーに関してはちょっとうるさいよ?」とお思いだろう。ラーメンとカレーに関しては日本人だもの、各人好みがはっきりとしていて、うんちくを喋らせたり、何処其処が美味い・・・と語らせたら話も尽きまい。良く雑誌やテレビのワイド番組で行っているようだが、こういうものに順位付けをする程愚かな事は無いと思っている。

 改めて、ラーメンとカレーに関してはページを割いて自分なりの論評を述べてみたいとは思っているが、此処では触れない。此処では今迄で一番辛かったカレーの話をしよう。それは雑誌オリーブの取材で覚えたハワイ・オアフ島のキング通りの「インディアハウス」というカレー屋さんに行った時の話だった。この時は雑誌の取材ではなく、ウインドサーフィンJAPANという会社の小冊子の撮影で行った時だったか、別の機会だったと思う。
雑誌オリーブ創刊2号のハワイ・ウインドサーフィン特集号で取材したホノルルのインディアハウスの記事。このときが初めてだったが、その後8回ほど行っているが、今どうなっているか判らない。※雑誌オリーブの記事より出典。

 飯塚君というスポーツ万能の若手ウインドサーファーと、英国で立身出世した中嶋君と言うウインドサーフィンJAPAN社のプロデューサーと他に、そもそもそのインディアハウスを教えてくれた雑誌ポパイの内坂氏と計4名で行ったと記憶している。そこでこの冒険者4名は「とにかく辛いカレーを食べてみたい」とお店のマスターにリクエストしたのだった。このマスターはその昔佐藤栄作首相のお抱えカレー専門コックで、首相邸でのガーデンパーティ等では必ず呼ばれて腕を振るったと言う事らしい。ハワイに来るたびに既に幾度も訪れていたので数年前から顔なじみになっていた。
 勿論普通に頼んでも、美味しさは抜群で未だに自分の好みのベスト3に入るお店だ。

このマスターに「超辛いカレーを!是非」とお願いして食べた様子は二度と忘れられない。皆、一口食べた瞬間「アッ、美味しいじゃん?余り辛く・・・・・」までしかモノを言えなかった。 次の瞬間全員無口になり、飯塚君はトイレ直行、残りの3名も最初の一口を飲み込むのに数分掛かったt記憶がある。暫くして、マスターが「大丈夫か?充分辛いか?」と訊いて来た。頼んだ以上見得があるのだろう、全員親指を立てながらGOOD!の合図を送ったが実態はそんなものではなかった。

 その辛さはいつもの5倍ほどの水を飲みながらやっとの事で胃袋に流し込むのがやっとだった。後で訊いたら、昔からあるインド伝統のレシピで、上から3番目の辛さだと言う。本人は辛すぎて一度も食べた事が無いと言う物凄い代物だった。

話を戻そう。

 ダイニングに皆が揃って食事をしたと思うのだが、その場には石津社長は参加せず別室でテレビ収録をされていたのだと思う。しかしその番組自体を観た記憶が無いので雑誌だったのかもしれない。撮影取材が終わって、ベランダに出てデッキチェアーに腰を掛けながらの食後の話が長かった。この夜話で得た事は今日に至るまで自分にとっての非常に大きな宝となっている。もう話題性ナンバーワン企業の社長と新入社員という立場は何処にも無く、凝り性人間達の会話サロンと化していた。

 まず口火を切ったのは石津社長だった。「今、君達若者は何に一番興味を持っているの?ヴァン ヂャケットに入社して早く一人前に成るとか、そういうんじゃなくて、下世話な事でも良いんだが・・。」人事の藤代氏、武宮氏も居た筈だが、利口な彼らは直ぐには口を開かなかったと思う。
VAN SITE主宰者、横国大同期の藤代氏と。大きな籐製のハンギングチェアで。

こちらは、直ぐに反応してしまい、あの最初の会社訪問の時の話の続きをした。「実は卒論制作のため英国で調査をしたら青・ブルーに色々な種類が存在し名前が付いているのに対し、日本には茶系に色々なバリエーションが在って色んな名前が付いている、これが不思議で・・。」と一気に色に関するテーマを話してみた。石津社長はそれを聞くとデッキチェアーから身を起こし、「それは面白いね!実に面白い」とニコニコ顔で座りなおすのだった。その夜はそれからが長かった。