今回グラスゴーでのCOP26で我が国日本が石炭火力発電に頼っている事を揶揄されて「化石賞」などと漫画のような賞を出され、メディアも何の権威もない行為に無視すりゃいいのにデカデカと報道する。普段あれだけ偏り報道するくせに、こんな時だけ公平性を保ってどうする?
此の石炭火力発電、英国は100年前さんざん産業革命で石炭で空に煙を吐き出し地球を汚したくせに、石炭に似たような天然ガスや廃棄物問題が解決していない原子力で代わりに発電している事実は棚に上げるのは卑怯じゃないのか?
1960年頃までの英国がどれだけ石炭を掘削し活用して二酸化炭素を出していたか?尊敬する写真家ユージン・スミスの作品にその証拠がいくらでも出ている。過去の話は「終わった話だから不問」で良い訳なかろう?
日本よりはるかに石炭火力発電比率が高いドイツに出さずに、何故日本に不名誉な「化石賞」などを出すのか?これはEU中心白人社会のアジア人種差別ではないのか?基本的にEU主要国はかっての植民地国を経済援助しながら、環境問題のはけ口・処理国にしている点を日本のメディアは報じない。表面的な動きだけ報道する軽薄さは治らないものか?
メディア含めて差別反対論者たちは何故こういう時には黙りこくっているのだ?地球環境問題はEU中心の環境ビジネス発であることがはっきりしているのに、なぜ日本のメディアはだらしない報道しか出来ないのだろう?
グレタ・トゥーンベリの鬼の形相のアピールを「いたいけな少女ですら地球環境を憂いて現社会に怒っている!」と持て囃した裏に何が有るのか?考えた我が国のメディアがあったろうか?
学校へ行かず、本来彼女の年齢でやるべきことをやらないで、環境ビジネス各社・環境団体をバックにメディアに乗って調子づく彼女を批判した主要国の為政者を、多くのメディアは叩いた。話題に成れば何でも「勝ち馬に乗ろうと」報道をする日本のメディアの底の浅さを感じざるを得ない。
1996年あたりから日本でも「白神山地のブナ林保全、長良川河口堰、長野オリンピック滑降競技コース問題」この3件を旗印に日本の環境団体が関係各所をつるし上げ、メディアもバックアップしたのを覚えているだろうか?
筆者は長野オリンピックの競技役員だったからはっきりと覚えている。「天然記念物のはい松の上をスキー選手が通るのはケシカラン、環境破壊だ!」と騒ぎ、メディアも「そうだそうだ!」の大合唱だった。学者含めて現場を知らない者たちが騒いだ。我々オリンピック関係者はあちこちでののしられ「恥を知れ!」とモノを投げられた。
しかし、結果はどうなった?
天然記念物の松は例年通り冬季は深さ3.5mの圧雪された深雪のはるか下に横たわっているのだ。しかもその天然記念物が生えている境界線の一部を30m飛ぶプレジャンプで越えていく事で簡単に解決してしまったのだ。現場を知らない、解決の努力を知らない、環境問題で騒ぐ人種はヒステリックすぎると言われる所以がここにある。
更に・・。
何故中学生、高校生にSDGsが大切だと教育し、COP26へ遠征してメディアに向かって環境問題をアピールさせるのだ?
SDGsなど高度成長下の’60年代’70年代に企業が営利目的の為に、地球環境を破壊するような事を進めて来たツケを、一般個人に払わせようとしているだけ。環境に悪いからレジ袋を有料にするって?造るのに1枚1円もしないレジ袋にスーパーの名前をデカデカと印刷して広告宣伝物にして製造価格の数倍で売り付ける・・・、ってこれ詐欺の一種ではないのか?環境問題にかこつけた完全な金儲けではないか?
ヨドバシカメラも御徒町の多慶屋も環境に考慮した素材のレジ袋に無料で入れてくれる。焼売の崎陽軒も同じ!彼らのような良心的な企業に出来るのに、なぜ他のスーパーや店舗、百貨店はしないのだ?更には便乗して紙袋まで有料にしている大手百貨店など、腰抜けメディアは何故問題提起し叩かないのだ?裏でツルンでいるとみられても仕方あるまい?
話は次へ進んで・・。
石炭火力発電をすぐにでも止めろ!って、今の発電比率で石炭火力発電を止めたら当然停電が起きる訳で、単純にその影響を社会生活に反映させると、JRその他鉄道の始発は朝8時頃に成り、終電は22時頃に成るとも言われる。若者達が勉学より身を入れているスマホなども、使えるのは朝8時から夜8時までになりかねない。良いのかそれで?
今までの生活を維持して石炭火力を急に廃止すればどれだけ今の生活が送れないか、実際身を持って体験させてからCOP26へ乗り込ませるべきだろう?
メディアの受け売りで、「アピールする事がカッコ良い、自分たちは良い事をしているんだ!」と思う前にやることがあるんじゃないのか?
歩きスマホでどれだけに人々が死に怪我して傷付いているか?スマホの使い過ぎでどれだけ電力が消費されているか?どれだけ視力障害者が増えているか?学校で教育者は何故これらを教育しない?
地球環境には直接関連はないが、若者が平気でシルバーシートにふんぞり返っている、席が空けばさっさと老婆の前を通って席に座る、爺を押しのけて席に座る。
混んでいるバスで高齢者が立っていても、座席の通路側に座り窓側を開けて化粧などを平気で行う。今日もバスの中でそういう若者が居たのでこう言った。「あなたは日本に来てまだ間もないのだろう?日本では乗り合いバスと言って、乗客は譲り合って一人でも多く座席に座れるようにするんだよ?」その若者、慌てて席を立った。勿論その若者は日本人だ。周りの高齢者二名がこれで座れた。
東京郊外のバスは昼間は高齢者だらけだ。こういったシーンはよく見る。彼らを育てる教育者達は一体何をしているんだ?親たちは何をしているんだ?一般的な社会生活を送るマナーや道徳を教えるよりSDGsの方が重要なのか?メディアもおかしくないか?
今、暮らせている普段の便利な何不自由ない生活はそのままで、メディアで報じられる地球環境問題のごく一部をかじっただけで「環境問題に詳しい、正しい行動をしている」自分に酔っているんじゃないのか?
だから一部の目立ちたい若者たちは一般の社会の本当のエネルギーに関する仕組みや犠牲を知らないで「目立つこと」だけ短絡的に走るのだろう?
あの3.11直後、原発停止で順繰りに計画停電になり2時間の暗闇・冷蔵庫の停止、その他で苦労したことを今の若者たちは知らない。COP26でメディアの前に立っている高校生たちは当時まだ5歳前後だもの。
教育者たちも、親たちも高校生をグラスゴーへ送りだす前にやる事があるんじゃないのか?
単純にSDGsだから、私はこうする、あーする的なTwitter,Facebookなどの自慢げ・意識高い系のSNS投稿を見ていると、なんとまあ軽い刹那的発想者しかいないのだろう?と憂える筆者なのだ。