2016年8月26日金曜日

「団塊世代のウインドサーフィン狂い外伝 #17」 ウインドサーフィンと広告代理店 A Windsurefing and Advertising company .

 1980年代に入ると、世界は大きく変わる事になった。この80年代に入り日本を含めた世界はベルリンの壁崩壊に象徴される東西冷戦時代の終焉、ビートルズのジョン・レノン暗殺、英王室チャールズとダイアナの婚礼、ハリウッド俳優ロナルド・レーガンの米大統領就任、ファミコンのヒット、CDの発明普及、バブル景気の始まり・・・など、今思うと情報インフラが旧態依然の状況下大きな動きが在った10年間だった。
我が家に35年以上飾られているニューズウィークの特集ポスター。

ジョン・レノン死亡記事英字新聞

個人的にも初めての広告代理店業界・銀座の中央宣興に入りウインドサーフィンと言うスポーツと出逢った重要な時期。ちょうどホイチョイプロダクションの人気連載漫画「気まぐれコンセプト」で話題を呼び、いわゆるカッコいい憧れの職種として巷でもてはやされていた広告代理店の実態を経験し始めた頃だと言って良い。
週刊ビッグコミック・スピリッツ連載の「気まぐれコンセプト」

 そうして、このウインドサーフィンという全く新しい、まだ知名度のないマリンスポーツがそれから5年も経たない1984年のロサンゼルス・オリンピックの競技種目に成るという急速な発展を遂げる事に成る。まさにその創成期から話題のニュースポーツへ発展する一番ホットな時期に、一番近い位置に居られたことはこの上ない幸運だと思っている。

 この事は、その後1990年頃から騒がれ始め、伝統的で閉鎖的な日本のスキー業界・団体で白い眼で蔑まれつつ爆発的に普及したスノーボードが、1998年長野オリンピックの正式種目に成るのと非常によく似ている。

 スノボの場合は早くから組織されていたメーカー群主体のプロ集団と、JOC傘下のスキー団体の争いのど真ん中で揉まれ、誰も経験した事のない嫌な思いもした。プロ集団からは個人名入りの怪文書を幾度も出され目の敵にもされた。しかしその双方の烏合の衆を外から見ることが出来、スポーツに携わる人種の人間性、徒党を組むと人間はどうなるかを観察できて面白くもあった。

 趣味をベースにしている野鳥愛好家団体とは異なり、頭の中に雪しか詰まっていない連中の名誉だの収入だのが関わる為だろうか、より激しく、より嫌らしい妬み、やっかみが強く、差別、陰謀、策略、下剋上が渦巻く世界だった。いずれ、このスキー・スノースポーツ業界の人種の笑える話はまとめてみたいと思っている。

 ウインドサーフィン、スノーボードいずれも横乗り系スポーツとして今までには無いジャンルを確立したが、もちろん自分でその種目を出来なければ何も言えない、言うべきではないという根本的理念から、乗れるように努力した。
 生まれついてのバランスの良さだったのか、ウインドサーフィンは乗った初日に沖へ行って戻れたし、スノーボードに至っては夜中の11時に暗いゲレンデで初めてスタッフに道具を借り、夜どうし一人で練習し、翌朝には黒い大きなゴミ袋を抱えてゲレンデの下の方まで捨てに行けた程だ。余程性に合っていたのだろう、コレばかりは両親のDNAに感謝するしかない。
1980年秋、31歳で筆者が生まれて初めてウインドサーフィンに乗った沖縄。

1990年、42歳で生まれて初めてスノーボードに乗った日の翌日、ルスツで。

こうした新しいジャンルのスポーツを扱うとなると、広告代理店というものはそれが将来「金に成るのか否か?」を早い段階で見極めようとする。しかし当時の中央宣興の社長は太っ腹だったのか、はたまた報知新聞やマリンスポーツ方面のメディア、人種、人材とのコネクションを他に先駆けて得ようとしたのか、非常に応援をしてくれた。

 そう大きな会社でもないのに、1981年の沖縄ワールドと言われた世界選手権大会のプロジェクトルームを社内に用意してくれて、ウインドサーフィンて何だ?面白そうだな?と寄ってくる社内の若手社員のたまり場になった。ホイチョイプロダクションの気まぐれコンセプトのネタになりそうな話が山ほど生まれたのもこの辺りの話だ。
中央宣興中心の沖縄ワールド、プロジェクトチームなど。営業・制作・マーケ。

 この沖縄ワールドのお陰で、生まれて初めて沖縄と言う場所に行けた。その後も計12回ほど沖縄を往復し、すっかり沖縄ファンになってしまった。まだ今のようなギスギスした沖縄ではなく、自然豊かな米軍風俗文化満載の魅惑の地だった印象が強い。贔屓にしているガレッジ・セールのゴリ君などまだ8歳・小学校2年生の頃だ。沖縄の何処かですれ違っていたかもしれない。安室奈美恵などまだ保育園に行くか否かの大昔の話。

 完全な沖縄方言でしゃべる人が沢山居た頃だ。幾度か泊めて頂いた名護の親切な知人宅で寝間着代わりに「着ていましょうネ!?」と沖縄風に言われ散々着続け、大会後その方から持って行きなさい、と言われ持ち帰った縞柄の浴衣が有るのだが、それが芭蕉布着物で非常に貴重で高価なモノだというのを知ったのは、つい数年前の事だった。
頂いた芭蕉布着物、洗い屋さんに出して綺麗にしたもの。

伝統的な縞柄。普段着ながら一生もの。

さっそく沖縄の風俗を調べて芭蕉布着物の価値を確認した。

琉球文化風俗は非常に興味深いものがある。

その貴重な着物を下さった名護の方はとうの昔に亡くなってしまったが、今になってその恩を返せない事を悔やんでいる。同時に沖縄と言えば現在政治的な動き、反戦活動、地元の方々と政治活動の外人部隊とのトラブルばかりメディアに載っているが、本当の沖縄の良さを少しも伝えないメディアには、ほとほと呆れるばかりだ。