2014年5月3日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #37.」 ●東京オリンピック その2.

 広尾高校1年生に入って直ぐの頃、当然のごとくテレビ、ラジオ、新聞、雑誌は半年後に開催が迫った東京オリンピック関連のニュース・話題で溢れていた。多少の事件や芸能ニュースなどはオリンピックのネタの影に隠れて一般には広まらなかった。政治家の汚職や芸能人のゴシップネタなどオリンピックが皆かき消してしまっていた。当時印象的に記憶しているロイ・ジェームスというDJが担当していたラジオ・コマーシャルの一種「日石チューンナップ・ジョッキー」などでは連日オリンピックに関するオヤジギャグ的ネタで番組が構成されていた。
GOOGLEフリー画像

暫らくは日本中でこの音頭が流れた。自分も何処かの夏祭り盆踊りで踊った覚えが在る。GOOGLEフリー画像


なんと、映画にもなっていた。これはさすがに当時観なかったが最近CSで観る事が出来た。GOOGLEフリー画像


まだまだこの時代はAM放送が全盛期で、FM放送は創生期に当たり、実質的にはNHK・FM(実験放送)と東海大学の実験放送FM東海しかなかった。1966年当時FMファンと言うクラシックレコードのジャケットを表紙に使った品の良いFM番組ファン用の本が創刊され定期購読したが、まだ‘64年オリンピックの年には無かった。しかし、たった2局しかない放送の為に月刊誌が出たと云う事自体が、今あちこちでエリア限定のミニFMが在る事を考えるとつくづく時代の流れを感じざるを得ない。
当時少し高めの雑誌だったが床から1m程の高さまで積み上がる程たまった。GOOGLEフリー画像

 音楽を楽しむにはクラシックだろうが、ポップスだろうが、歌謡曲だろうが、当時の基本はレコードで、気の利いた場所ではオープンリールの高価なテープレコーダー(TEACだのアカイだのSONY)から聴くのが普通だった。
しかし音質は確かに良いのだが熱や故障に弱く、縦位置に置いたオープンリールがキャプスタンやピンチローラーのメンテナンス不備でテープが海藻のモズクのように床に溜まってしまったのを何度も視かけた。
しかしFM放送局から流れる番組で音楽を聴くのはタダだし、こういったメカトラブルの面倒はないモノの、チューニング不全による雑音だの、全曲を頭からきちんと流さないで曲目タイトルをかぶせたり、アナウンサーのよもやま話が入ったりするのであまり重要視されていなかった。
FMチューナー単体もまだ真空管の時代だった。GOOGLEフリー画像

 何度も繰り返すが1964年という年、団塊世代にとっては勿論の事、日本人にとっては「アー、あの年ね?」と2つや3つの個人エピソードを想い出す印象深い年である事は間違いないだろう。特に日本中すべてが東京オリンピックに向かって大変革を遂げた気合と集中の年だったから、何らかの形で自分がその変革の当事者になった経験を持つ人が多いと思う。我が家でも中野区大和町の母の実家の敷地がちょうどオリンピック道路として突貫工事が進められていた環状七号線、いわゆる環七と早稲田通りの大和町陸橋の一部が掛かるため150坪の70%以上立ち退きを余儀なくされてしまった。我が祖母と母親達3姉妹の記念写真の場所は東京オリンピック開催の為消え去った。
  こうやって首都高速道路や環状七号線オリンピック道路など都市交通インフラが整備充実したのもオリンピックに間に合わせるための国を挙げての事業だった。もちろん1964年10月1日開業の東海道新幹線も#35で述べたとおりの状況だ。
 この頃の時刻表を視てみると、東京・大阪間の飛行機便が日航(JAL)全日空(ANA)合わせて44往復も飛んでいる。如何に高度成長初期の日本経済が交通インフラに関して東海道新幹線の開通を待っていたか良く判る。更に時刻表を見ていて面白いのは、東京発大阪行きのJAL便はそのうち数便がそのまま福岡空港まで延長して飛んでいる事だ。一方のANAは名古屋経由で福岡空港に飛んでいる。
航空時刻表は1頁半程度しかなかった。

前にも紹介したが1964年10月1日の東海道新幹線開業時の国鉄時刻表。この中の最終の方に上の航空時刻表がある。

 今私がヤマセミ撮影の為に年間10往復もする熊本方面だと、東京―熊本経由長崎行(1日1便)、大阪―熊本経由長崎(1日2便)のフライトになっている。鹿児島も宮崎経由ルートで東京と結んでいる。1964年頃の九州は東京から非常に遠い場所で、人の移動・行き来も少なかったのだろう。寝台特急でも20時間は掛かっていた遠隔地だったのだ。
ちなみに当時の航空運賃は東京―熊本間・片道¥12,700円。いまLCC格安航空運賃や宿とのパック料金で片道¥10,000円程度であるのに比べると日本と言う国、時代の流れが如何に価値・コストと云うモノに変革を与えたかが良く判ろう。
 当時特急はやぶさの2等寝台(3段の中段)で東京から熊本まで行くと、片道大人¥3,870円。全日空で行くと1日1便だけだが同じく¥12,700円。現在、新幹線乗継・普通指定席で東京駅から熊本駅まで行くとなんと片道¥27,120円も掛かる。ソラシドエアーやANAの早割で片道1万円を切るのと比べれば50年経って鉄道経由のコスト約7倍、航空経由コスト約0.8倍!これをどの様に解釈して良いのか?なんだか膝がガクガクして来た。

 渋谷から歩いて行ける代々木の国立競技場プールとバスケットコートがまだ建設中だった1963年奥沢中学校時代に行った事が有ったが、まだ土台部分の工事中でワシントンハイツと言われた米軍住宅の平屋建てが沢山並んでいた。今になって考えると米軍住宅をそのまま参加選手の選手村にしてしまうなど、当時のオリンピックは、既存の外人家族用住宅をそのまま再利用したエコの先取りだったのだ。渋谷からそのオリンピック施設に向かう道は東京オリンピック以降1960年代後半から公園通りと呼ばれ、渋谷パルコ・渋谷公会堂と言った若者に人気の中心エリアになって行った。
オリンピック開催前のワシントンハイツ附近。右は山の手線。Goo古地図MAPより

 オリンピック終了後、この木造平屋の住宅は取り壊され、代々木公園として1967年にオープンした。今はどうなったか知らないが当時は24時間出入りできる公園だった。1970年代になってVANヂャケットに入社し社会人となり、よく青山246から市場調査と言い訳して表参道を通り抜け、コープオリンピアという高級マンション1階の外人客が良く来るスーパーマーケットでランチセットを買い込み代々木公園で息抜きをした事が有った。小学校の先輩で歌手の中尾ミエさんが日光浴に来ていたのに出くわした事もあった。
現在も代々木公園に記念資料館として残っている当時のワシントンハイツ米軍住宅 GOOGLEフリー画像 


 考えてみればこの代々木公園がワシントンハイツになる前、代々木練兵場として軍隊の訓練所だったのだ。熊本県人吉市出身の日野熊蔵大尉がドイツから持ち帰った単葉機ハンス・グラーデ機で実質的に我が国初の飛行を行ったのもこの場所だった。徳川大尉のアンリ・ファルマン機での飛行が正式記録になっているが、それは記録会としての公式飛行日の最初に飛んだのが徳川大尉であって、前日予行演習日に滑走だけのはずが思わず数万の観客の声援に応えようと操縦桿を引いて60m程飛んだ日野熊蔵大尉の記録も非公式ながら有るらしい。しかし公式記録はいったん認められたらどうしようもないだろう。当時はまだ航空機が最強の兵器になる前の話で、パイロットは陽気な曲芸師程度のモノだったのではないだろうか?競争自動車のレーサーに近い存在だったかも知れない。