2013年5月31日金曜日

 写真撮影について・・・・4.

専門家ではない、ごく普通の人々特に団塊世代の写真ファンのために写真撮影についてのあれこれをランダムに述べてきたが、最近写真の世界がどうもおかしくなってきているように感ずるので今日はそれを述べたい。

 写真と云えば演台のようなものに寄り掛かった坂本龍馬の画像や江戸末期・明治維新の日本の風俗写真がまず最初の頃の写真と認識する方が多い事だろう。神田の古本屋街の神保町交差点直ぐにある岩波ビルの2階のお店などに明治・大正以降の日本の絵ハガキ写真などを売っている。これらを観ると観光地写真や当時のビル・町並みなどの写し方などがよく判る。一度行ってみるととても面白い。

 一度など航空機の大きなイベントを担当していて、昔の航空機の古い写真を物色していたところ、代々木練兵場での軍事祭典記念の絵葉書が有ったので買い求めた。裏に記念切手が貼ってあり初日カバーだった。切手・コイン収集のお店に持っていったら13万円で買うという!2千円で買ったモノが13万円!アベノミクス以前の話だが、足で稼ぐと神田の古書街にはまだまだお宝が眠っているかもしれない。

また話が飛んだ。悪い癖は治らない・・・・。

 写真と云うものは結婚式などの家族催事や学校の卒業記念が一般庶民には近い被写体だった。次にマルベル堂などの芸能人スターのプロマイドなどが近い存在だろう。しかし一番需要が多く技術的にも発達したのは軍事利用の写真と報道関連の写真だ。これらの両方から派生しておきながら一般の写真家・写真メディアがもてはやしたのが有名なフランスの雑誌の表紙を飾った「ロバート・キャパの『崩れ落ちる兵士』」だ。


 軍事報道写真の権化として、「瞬間を捉えた奇跡の秀作」とカメラ雑誌中心のマスコミがこぞって賞賛し、日本の写真業界もそれがあたりまえ、それを知らなきゃモグリだと言わんばかりの常識を写真愛好家たちに植え付けてきた。特にフィルム時代の写真界の大御所は殆どがそうだったと最近になってあちこちでそういう記事を目にする。
 

 しかし今年、沢木耕太郎氏がNHKなど主要メディアで問題の『崩れ落ちる兵士』の嘘とねつ造、撮影者も実は彼の相棒の女性カメラマンであった事などを理路整然と説いた。権威と一部の中心的人間で牛耳られていた写真界の常識をひっくり返してくれた事は非常に小気味よかった。 

 絵画にしろ写真にしろその背景は「訴えたい何か」を如何に説得力ある「画像」で相手に伝えるかというものだろう。ピカソのゲルニカにしろ、コップの底に顔が有っても良いじゃないか!の岡本太郎にしても同様だと思う。したがって演出・作為はその「構図」はもちろん「瞬間」をどう表現するかで決まってくる。だからやみくもに撮影しまくった中から良い写真・画像を選ぶのは超初歩的スタイルで、撮影前にすでに何を狙い、どういうシチュエーションでシャッターを切るか熟考ていなければならないと思うのだ。 だから黒沢明監督が映画を造る前に相当量の絵コンテを自分で描いていた事を知った時、自分の考えは間違っていなかったと腑に落ちたのだった。

 ロバート・キャパの場合も自分自身を名前まで変えて、アメリカ人の報道カメラマンの様に演じ、自分が撮ったのではない写真で、しかも本当の戦場の撮影でもないのにそういうフレコミでメディアに画像を載せてしまった。当時無名で貧乏で、有名になり金を稼ぎたい一心での行動だろうが、レタッチ屋に画像の処理を依頼したり、パソコンで必要以上に彩度を上げたりしてしまう今のアマチュアカメラマンの行動に通じる「何か」が有るような気がしてならない。決して良い事ではないだろう。

この話には更に奥の奥が有る。

 NHKが取り上げ、これだけ話題になったこの沢木耕太郎氏のドラマチックな暴きは、実は当の昔6~70年前から欧米の写真業界・著名なカメラマンの間では「でっち上げ・嘘」であるという事が常識化していて、日本のメディアや写真業界が知らなかっただけだという話もある。永年広告代理店勤務の経験値からすればタイミング良く「ロバートキャパ生誕100周年記念展」を開催している動きとこれらが連動していないとはとても思えない。世の中はこんな事ばかりだから、余程自分の眼を開いて「真実は何処にあるか?」を自分で判断しなければならない時代だという事だろう。