熊本県の八代駅前二百歩の所にミックという珈琲店がある。老舗と言って良いと思う。
昭和42年創業というから筆者高校三年生だ、12月生まれだから昭和42年の12月まで17歳。熊日新聞に連載された此のミックのマスター出水晃さんの話によると二十二歳の時だというからマスターは5歳先輩。
京都に居る時大学生で…って軽く書いてあるが、実は京都大学文学部を卒業されている。我が父親が同じく京都大学の理学部だったので、同窓だ。筆者は現役時代工学部を受けたが落ちた。頭の良い人しか行けない所なのだ。
願書を出すにあたり高校の担任の所へ京都大学を受けるので・・と告げたら、椅子に座ったまま顔だけこちらを向けて上目遣いで「シンジョー君が京都大学?・・・まあ、記念には良いだろう」と言われた、死ぬまで忘れない。
昭和42年といえば、我が父だけ八代に残して母と兄弟三人は東京の東中野の祖母の家に居候していた頃。出来たばかりの珈琲店ミックに社宅から歩いて10分、我が父が行かない訳がない。JAZZには全く興味がない父だが、ひょっとするとマスター出水晃さんとは結構話をしたんじゃなかろうか?
その息子の筆者が2001年以来、八代~人吉に来る都度此処ミックへ必ず立ち寄るのも何かのご縁だろう。筆者はこういう偶然とかご縁とかに異常なほど出遭う異常体質?運命なのだ。特に歳を重ねるにつれそれが増しているのでいささか自分でも呆れている昨今。
最初に筆者が此のミックへ足を踏み入れたのは鹿児島の加世田市(現 南さつま市)での2001年世界室内自転車選手権大会という自転車の国際大会の運営支援で広告代理店博報堂の業務で鹿児島へ出張を繰り返していた頃。
ある時荒天で鹿児島⇒福岡(板付基地併用)空港の飛行機が飛ばず、当時の鹿児島本線の特急つばめで博多駅を目指していた時の事。
球磨川の鉄橋を渡る際、八代市の夜景を見て八代市立第二中学校(筆者は大田郷小学校でも二中でもマスターの後輩にあたる)在学時の街との変わりように驚いてスタッフを先に博多へ行かせ、勝手に思いついたプランBで八代駅に降り立ったのだ。
降りたは良いが、もう誰も連絡先が判らないので頭が良く二中の1年生最初の級長になった多武君を必死に探した。それがミックの喫茶店に在った電話帳だった。
突然の電話にもよく筆者の事を覚えてくれていて、すぐに逢う事になった。もうとっくに暗いのにミックまで迎えに来てくれて自宅へ・・。そこに当時のクラスメートも来てくれて感激の一夜になったのだった。
要は筆者の八代市とのご縁・第二幕が上がったきっかけの場所が、此処ミック珈琲店だったのだ。まだこの段階ではマスターとの個人的繋がりは全くないと言って良い。