メディアは盛んに生成系AIの凄さと未来展望を報ずる。一方でその恐ろしさや危険性も報じている。ただあくまで一般的に近い将来多用することを前提としてだ。
専門的な領域は別として、生成系AIは我々一般人に一番関係=影響があるといえば、文章作成(レポート・論文・手紙/ラブレター・契約書などを含む)と、描画・作画・画像制作辺りではないだろうか?
筆者が日常的に深く関わっている写真などでは被写体が何であろうと、AdobeのPhotoshopなどの画像ソフトで、トリミングや明暗、彩度調整などを既に20年以上前から行っている。
特に写真集を自費出版する際はDTPの簡単なレベルで全カットの入稿データを作る。しかし最低限の「真実を写した画像」として写真の持つ「意味と意義」を守っているつもりだ。
邪魔な映り込みアイテムを消込み、無かったことにするような事、あるいは光と色を作為的に盛って、より印象を誇張したりはしない。アートとしての写真と生態記録写真の境目だけは何としても守っている。
これは決してアートとしての写真領域を否定しているのではない。筆者の方がある面異質なのは十分判って言っている。
つまり、写真の世界などでは生成系AIの原点ともいえるオリジナルの写真から「創られた写真」へいろいろな試みが長い年月されてきたので、生成系アナログ、最近は生成系デジタル処理が既に存在したのだ。
今騒がれている生成系AIだって、元は人間がその意志を持って意図的にAI駆使・デジタルで作り上げるものだろう?
筆者はこの生成系AIに今非常に注目しているが、これに関するメディア報道を毎日チェックしていて大変心配な事が今2点ある。以下の2点がそれだ。
① 便利な生成系AIにあまり頼りすぎると、自分で考え、自分で作業する脳力がどんどん退化し、人間としての脳機能が今をピークにどんどん下がっていくのではないだろうか?これは、いずれ人間の脳がAIにとって代わられ、映画「AI」や「アイ・ロボット」「ターミネーター」などの世界が現実になる様な気がする。
② 写真はシステムも機械もアナログからデジタルにスムーズに移行したが、手作業の描画など美術系アートのクリエータの世界がどうなっていくかの心配・不安を持っている。手作業クリエータの醸し出す世界は大変に人間的で、感性がほとばしるものだ。
クリエータが己のクリエイティブ作業にその人間性やオリジナリティ、手作業により生まれる人間臭さを損なわない範囲でAIを活用するのはもちろん構わないとは思うが、その作家さんらしさを見抜くファンはすぐに作品の変化に気づくものだ。
これが生成系AIによっていとも簡単に模倣され、一見オリジナルを凌ぐような「嗜好性」を持った時、アートの世界が崩壊するのではないだろうかと危惧している。
②に関して言えば、例として子供の頃から好きで筆者の脳に刻まれている影絵作家藤城清二氏がいる。かって東京12チャンネルの天気予報の背景に彼の切り絵動画が流れていて、自分のひと時代の大切な記憶として残っている。つい先週NHKで朝特集をしていた。