スウェーデンの若い精神科医が書いた「スマホ脳」3回読み返してますます納得した。筆者「小説・随筆」は昭和の時代、文庫本狂いと言われるほどよく読んだ。小学校時代は図書室の貸し出しランキング2位だったこともある。
しかし50歳を過ぎて「作り話」はほとんど読まなくなった。ノンフィクション、事実に基づいた本しか読まなくなった。事実に基づいて書いた小説、例えば司馬遼太郎の「坂の上の雲」や日本海海戦のロシア側のバルチック艦隊ロジェストヴェンスキー提督の実話(妻に宛てた手紙に基づく実話)などはむさぼるように読んだ。
何故か作り話は面白いと思わなくなったのだ。特に直木賞・芥川賞になった小説はどれも1/3も読まないうちに飽きてしまうようになった。
数年前お笑いタレントが書いて賞を獲った作品など、これを選んだ審査員たちの脳を疑ったものだ「大丈夫か?」と。もちろん筆者の方がオカシイのかもしれないが・・・。
二歳年上だった影山民夫など、第99回直木賞を獲った「遠い海から来たCOO」などより、実話エッセイを集めた「普通の生活」の方がはるかに面白いと思うのだが・・。
話が冒頭から飛んでしまった。オイラ認知症だろうか?
自分の経験、自分の知っている数多い人々、友人知人を頭に浮かべながら、この「スマホ脳」を読み返す都度、いちいち納得できる内容に幾度もうなずく自分が居た。
筆者の周りには生で逢う友人知人が少なくとも20人いる。
Facebookで繋がっている者はそのうち16名。あとは携帯端末のシートメール、あるいはPCのEメールでのコミュニケーション。音声通話は緊急時以外はめったに使わない。
筆者が長い事ガラケーからスマホに替えなかった理由は昨日のこのブログで述べたとおりだ。電源を入れればまだ動くが、通信はもう出来ない。
これがFacebook を通じてメッセンジャーや投稿内容でコメントのやり取りをする相手となると、リアルで逢わない(逢えない)人が別に20名ほどいる。一度も生で対面したことが無い人も数人含まれる。年賀状のやり取りは長い事100名を上下していたが、最近減ってきた。
確かにFacebook で知り合ったバーチャル・コミュニケーション相手が存在すること自体は人類の歴史上、今、すなわち現在が異常な時なのかもしれない。
かって人類のほとんどが狩猟民族だった頃には会った事もない相手と仮想空間で相対するなどという事は想像もしなかった事だろう。昔は人類は生身の「敵」もしくは「味方=仲間」のどちらかしか存在しなかった・・とスウェーデンの精神科医は説いている。
話の後半はスマホの弊害と、スマホを通じてSNS,Facebook などを駆使することでうつに成ったり、精神を病んだりする、あるいはそこまでいかずとも「幸せではない、満足ではない」状態に人々が陥るという怖い話に広がっていく。
筆者自身もスマホに関わる案件で大きな「違和感」を感じた経験が幾度かある。
その一つは10年ほど前25年振りで再会した旧友と山のヒュッテに泊りがけで行った際の事。標高1700mの高原で何故か電波が通じる所だった。湿原の木道で野鳥を観察・撮影している最中、ほぼ半分の時間をそいつはスマホを駆使していた。時には木道にしゃがみこんで、時折大きな笑い声で・・。一体山に何しに来たんだ?という疑念で同行を後悔しっぱなしだった。
夜はもっと酷かった。昔話、共通の友人のその後など人生の話をしようと楽しみにしていたのに、そいつは布団にくるまって、ド近眼の目でスマホの画面を見続けていた。液晶がそいつの顔を青白く照らし不気味だった。山へ来たことを目一杯後悔させてくれた。
© KADOKAWA ASCII Research Laboratories, Inc. 2023より
山を下りてFacebookからそいつを消し去ったのは言うまでもない。
目の前にリアル=生のコミュニケーション相手が居るのに、一生懸命スマホの液晶を通じて他人との会話に見入る人間は決して「友」・・・どころか「人間」ではない。既に当時そいつは「まぎれもないスマホジャンキー」になってしまっていたのだ。
無礼・失礼を通り越して「怒り」すら湧かなかった。多分スマホジャンキーの当人は何も感じなかったのだろう。判っていなかったのだろう、もちろん反省などしないはず。社会的に言えば欠陥人間の最たるものだと思う。
筆者がスマホジャンキーを言い始めた頃の有名な動画 Youtubeよりhttps://www.youtube.com/watch?v=VASywEuqFd8
スウェーデンの若き精神科医は「スマホは私たちの最新のドラッグだ」と言っている。
8年ほど前、このブログで「スマホジャンキー」という言葉を初めて使ったが、まんざら間違いではなかったと今思っている。
で、もう一つの経験は、自分では殆どFacebook投稿をせず、人の投稿(画像・写真・コメント)を観るだけ。時折その投稿内容や投稿者の投稿意図とはまるで関係なくウケを狙ってだろう発せられるピント外れのコメント。
各投稿者の思惑・意図(普通Facebookの投稿は皆さん結構真面目)を無視した空気感阻害コメントは「投稿という座」の後味を悪くするし、投稿者に失礼な場合がある。
スウェーデンの若き精神科医はこう言っている。
他人の投稿の写真やコメントを観るだけで、自分では写真もアップしないし投稿しない、議論にも参加しないユーザーは積極的なユーザーより精神状態が悪く成る様だ。(147p)
実はFacebook上での積極的なコミュニケーションは9%程度で、ほとんどが尽きることのない潮流のようなコメントや、画像を次から次へとただ観ているだけなのだ。(147p)
昨日の投稿部分の最初の方で、「人間はスマホという最先端の機器に順応できるようには発達してきていない・・。」とスウェーデンの若き精神科医が言っていると述べた。
例の1万個の点(=20万年間の世代)のうち9,500個の点、つまり過去9,500世代において人類は次のような状態だったと言っている。
① 当時全人口の半数は10歳になる前に亡くなっていた。(当時の自然淘汰)
② 当時は50~150人で暮らし、コミュニケーション相手もその数が精いっぱいだった。
③ 当時は移住が当たり前で一所に長くは住まなかった(=食料の関係上住めなかった)
④ 当時は生涯で出逢う人間は200名程度、多くて1,000名以下だった。今はスマホ他端末、ネットを通じて数億の「他人」とバーチャル上で逢う事が可能だ。
⑤ 当時の平均寿命は30歳だった、現在は7~80歳までそれが伸びた。
何を言いたいかというと、こうした人類の長い歴史で人間に備わった生理機能・思考能力・脳のキャパシティは、数量的にスマホ、SNS、特にFacebookなどのコミュニケーション機器・ソフトに順応出来るようはなっていない・・・。と力を込めて言っているのだ。
無意識のうちに筆者がFacebook 友達登録の人数を常時100名以下にコントロールしてきたこともこれらに通じる部分があったと安心した。もちろん1000~2000人とFB友達の多い方もいるが、筆者はそんな数覚えていられないしケアできない。
あくまで筆者の個人的理念だが、友達である以上はリアルでも逢う事が出来、あるいは過去において逢っていて、なおかつどこかで共通世界・共通感覚・共通価値観を持てる人とだけつながっていたいと思うのだが・・・。
筆者が10年前から思っていたスマホに関する違和感、Facebook に対する違和感はスウェーデンの若き精神科医この辺りと非常に共通するものがあると感じた。