2014年9月27日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #70.」 1972年春休み、英国短期留学ホームステイ始末記 その2.

基本的に語学学校は滞在先のボーンマスに数校は在ったようだ。経営者はスイス人が多かった。理由はスイスという国の存在・環境そのものにあると聞いた。スイスはフランスとドイツに接していて、南西のフランスに近いジュネーブ・エリアはフランス語を通用語とし、北のドイツに近いチューリッヒやバーゼルはドイツ語と使うという。結局スイス人であれば基本的な高等教育を受ければ自ずと最低でもドイツ語・フランス語・英語は覚えるという訳らしい。

 だから、オリンピックのウインタースポーツ領域を司るFIS国際スキー連盟も、管轄するスキー種目の公用語はフランス語、ドイツ語の順で、英語は3番目の公用語になっている。これは近代オリンピックの提唱者がフランスのクーベルタン男爵だったからだろうか。唯一、誕生したのがアメリカ合衆国だったスノーボードのみが、会議・書類の公用語、競技中のアナウンス・成績表示の言語として英語が第一に使われている。だから長野オリンピック直前、全日本スキー連盟のスノーボード専門委員としてFIS本部での国際会議に二度程参加したとき、年次報告や晩餐会に招待されても他の日本人の
理事のように専属通訳なしで言葉が通じて助かった。これがフランス語やドイツ語だったら一言もしゃべれなかったろう。
 
FIS国際スキー連盟1997年長野オリンピック前年の年間公式レポート・仏/独/英

 そういう訳でボーンマスの語学学校の教師や経営者はスイス人がほとんどだった。とんでもない映画鑑賞事件の翌日学校に行ってみると、なんと!広尾高校で同期のB組にいた松田真理子がこの学校にいるではないか!彼女は小池が属していたテニス部だったので、二人は先輩・後輩の仲って訳だ。一気に芝生のキャンパスで広尾高校時代の話が盛り上がってしまった。

広尾高校同期のテニス部メンバー前列右端がB組の松田さん。

 ぜんぜん知らなかったのだが、この同期の松田さんの姉は松田和子といって1960年代のトップモデルだったそうだ。その姉の和子が事故死したカーレーサーの福沢幸雄が家族も認めた恋人だったという話はつい最近知った。もともと芸能界や有名人には興味が無いので、当時は知らなくて当たり前なのだが。
 ハンサムなハーフの福沢幸雄の名前はメンズクラブなどの雑誌で少しは知っていた。「夜のヒットスタジオ」という生放送の歌番組で小川知子という歌手が、この若きレーサーの死を知って、泣きながら「小指の思い出」という歌を歌ったのを観ていて、てっきり恋仲だったと思い込んでいた。しかし実は本命は全然違って他に居たのだ。もうこの時代からテレビというメディアは嘘の演出で固められていたという訳だったのだ。

当時の日本ファッション界のトップモデル松田和子。ヨーロッパにも進出した第一人者。

 この語学学校に通う毎日、と言っても学校にはなかなか行かず、街中をカメラを肩にかけて歩き回る毎日だった。とにかくバスにはあまり乗らず、エルムズ・ロードから5km離れたダウンタウンまでとにかく歩いた。帰りはバスに乗ることが多かったが毎日大体10Km以上は歩いていたようだ。時には隣町のPOOLまで行ったり、海岸通を小池と探検したり。アルコールは飲めないのにパブへ入って話し込んだりした。

雨の日、ダウンタウンの喫茶店で撮ったお気に入りの写真。Bournemouthらしい風景。

 このボーンマスでも、例によってドキドキする事件を起こしている。


  
ジル・アリソンという小池のホームステイ先の近所に住んでいる女の子が、ある日の夕方その友達を連れて来たので、4人でドーバー海峡の海岸線に散歩しに行った。ふと見ると多少古めだったが手漕ぎボートが有るので、筆者とジルだけがそれに乗り沖へ漕いで出た。
 小池とジルの友達は海岸の防波提に座って手を振りながら見ていた。300mほどの沖合いでボートの中で片言に英語でいろいろ日本の話やイングランドサッカーの話をしていたのだが、暗くなってきたので戻ろうと思って岸のほうを観たら明かりが全然見えないではないか。白い壁が連なる海岸線が続いているだけだった。
 ドーバー海峡の早い潮に流されたのだ。おまけにジルは早く帰らないと母親に怒られると言い出した。ウソだろう?いい歳をして・・・と思い、念のため歳を訊いたら15歳だと言う。それを聴いて腰が砕けそうになった。自分よりは年下だとは思っていたが、どう考えても絶対に15歳とは思えなかった。何故そう思えなかったかは想像にお任せする・・・もちろん、貴方の想像で正解だ。
 ボーンマスの海岸道路、右はドーバー海峡。右端に見えるのがシアターとレストランが乗っかった大桟橋で名所らしかった。上が1972年に筆者が撮影した老人二人。下が同じ場所に2001年に再訪して親友と同じポーズで撮影したもの。(合成処理)25年の流れが感じられる。

 焦って慌ててボートに立ったらボートが転覆してしまう。この時点で筆者はまだウインドサーフィンを始めていない、海についてはまったくの素人なのだ。もう、決死の勢いで岸に舳先を向けて漕いだ。ホームステイ先に戻って手の平の皮が4箇所剥けていたのを見ても相当な勢いで漕いだのだろう。海は決して荒れていなかったが、それが逆に潮の流れを感じさせなかったのだろう、岸を見ながらろくに深く考えずに沖に漕ぎ出したのが失敗だった。


 今はどうだか知らないが、当時の英国では18歳になると大人と認められ、女の子でも18歳の誕生日に家の鍵を渡され、夜遊びに行こうが、男友達の家に泊まろうが、「See you tomorrow morning!」で済むのだが、未成年15歳と成るとそうは行かない!一つ間違えばこちらは犯罪者になってしまう。


 ボートを岸に着け、出来るだけ岸上のほうまで引きずって杭に舫い、とにかく歩いた。で、ボーンマス・ピアと言う有名なシアター&レストランが乗っかった大桟橋?の辺りでタクシーを捕まえてジルを乗せ、自宅まで送り届けたのだった。一応観光地だったのが幸いした。朝夕はまだ寒い3月の初めだというのに、もう背中は汗でびっしょりだった。もちろんジルの家庭の夕飯には間に合ったし、事の次第を超早口でまくし立てるジルから経緯を聴いた両親からは大変感謝され、日本人としての最低限の面子だけは保たれたようだった。

 しかし、頭にきたのは小池の姿が何処にも見えなかった事だった。翌日訊いたらさっさと二人して街中に戻ったそうだ。
ドーバー海峡に突き出すように桟橋劇場とレストランが今でもある。1972年撮影

 これがきっかけだったのかどうかは覚えていないが、その後、事あるごとにスケートに行かないかとか、ホームパーティに来ないかとアリソン家から誘いが来た。小池をそそのかして2度ほど参加させてもらったが、それ以上はお断りした。後で訊いたら、アリソン家ではきちんと教育を受けた品行方正な大学生のフットボーラー日本人が、娘の相手をしてくれているのが嬉しくて、それを近隣の知り合いに自慢したかったそうだ。これを幸いに、
この皆さんにお願いした大きな想い出がある。

 ちょうどこの頃、毎朝ラジオから流れてくるBBCの音楽番組で順位急上昇中の気になる曲があった。ギルバート・オサリバンという、初めて聞く名前の歌手のAlone againnaturally)と言う曲だった。早速ボーンマスのダウンタウンに有る大きなレコード屋さんに行って買い求めた。しかし、この画像の通り歌詞が印刷された日本にあるようなレコードジャケットなど無くて、MAMという聞きなれないレコード会社の赤い袋に入っているだけだった。しかもビニール袋などはなく、いきなりこの赤袋のまま店の紙袋に入れて渡された。
42年前購入してきたギルバート・オサリバンのAlone again (Naturally)原盤。

 これじゃ何を歌っているのか歌詞が判らない!そこで、仕事でいつも忙しいホームステイ先のご主人ではなく、アリソン家に集まった近所の人たちに聴いてもらって歌詞を書いてもらうことにしたのだった。これはちょっとしたイベントになってしまった。曲は悲しいけれど人間味のあるまじめな内容の良い曲だし、近所の皆も大好きらしかった。もう大騒ぎでレコードを何回もかけて全員が筆記するのだが、1フレーズごとに確認するものだから、とうとう最初のレコードは傷だらけに成ってしまった。これではせっかくの良い曲も、とても聴けたものではない、改めて2枚買い込んで帰国した。ギルバート・オサリバンのこの曲が英国で1位になるために、日本人が思わぬ手助けをしてしまった訳だ。何でそんなに大騒ぎなのか訊いたら、ギルバート・オサリバンはアイルランド訛りが酷くて、アリソン家の皆さんでも何度も聴かないと、きちんと歌詞を書き取れなかったらしい。
 日本に帰って、暫くして全米で6週連続トップになったこのアローン・アゲインが、国内のヒットパレードでトップになるのは半年以上も後、10月の事だった。