2014年9月13日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #66.」 1970年は新日本文化・風俗の夜明けだった!

大学封鎖解除から1ヶ月も経つと、清水ヶ丘キャンパスの授業も再開され、その年の授業は特別措置で殆どがレポート提出で単位習得と成った。だから、この1969年に入学した我々の代は単位を落とした者など殆ど居ないのではないだろうか?第2外国語にドイツ語・初級・中級を選択した筆者など、未だにABCD、つまりアー、ベー、ツェー、デーで最後まで発音できない。それでも卒業できたのだから信じられない大学生活だった。こんないい加減な大学生活だったから、その他の科目も、本当に単位が取れているのか?在学中ばかりか4~50歳になるまで、「本当は大学をきちんと卒業できていないのではないか?」という恐ろしい夢を何度も見て、汗びっしょりで朝を迎える事が幾度か有った。

封鎖解除により我々美術科の自主授業は自動的に解消され、本物の大学授業に移っていったが、大学側も学生側も何処と無く本調子になるには1年程掛かったと言って良いだろう。まず封鎖が解除され何が一番変わったかと言うと、一部休業中だった学生食堂つまり「学食」が完全に再開された事だ。実は封鎖中もほんの一部だけオープンしていたのだ。だから信じられないだろうが、全共闘の連中と一般学生が一つ屋根の下で、うどんをすすっていた時期が有ったのだ。もちろん今のような立派な学食ではなく、トタン屋根の1960年代初期のスキー場の食堂に近い雰囲気、メニューとレベルだった。しかい南太田の駅から800mの坂を上った丘の上のキャンパスでは、学生同士が寛げる場所として唯一此処しかなかった。

当時の横浜国大の学食風景、スキー場の食堂とほぼ同じイメージだった。

この学食の味噌汁の具は、1回だけワカメの時があったが、それ以外は4年間とうとう丸いお麩しか見たことが無かった。井の頭公園の鯉に与える餌の様なお麩だったが、今でも味噌汁の具にこれを見るたび大学の学食を思い出す。
丸い麩の味噌汁、とうとう4年間これ以外の具に出会えなかった。

封鎖解除後も美術科の同級生は自主授業時代の流れで、数名が小グループでスケッチ旅行に行く事が多かった。皆は水彩、鉛筆画、油絵の下書きなどを主に行っていたが、こちらは写真撮影がメインで水彩画スケッチ程度が唯一フリーハンドの作品制作だった。

我が祖母、新庄よし子の友人に著名な串田孫一という随筆家・画家が居て、旅先から祖母宛に何枚も自作の絵葉書を送ってきた。どうやら21歳年下ということから想像するに、御茶ノ水幼稚園時代か何処かでの教え子ではないかと思うが、違うかもしれない。筆者は祖母が飾っていたこの串田さんからの絵葉書が気に入っていて、いつか旅先からこういう葉書を描いて送りたいと思っていた。
  
 木曽路、奈良井宿~妻籠宿など道すがら10分程度で描いたスケッチなど、もともと自分で自分が絵を描く才能が無いとは思わないのだが、とうとう開花しないまま今日に至ってしまった為、どれも酷い絵だ。 しかし描いた時の情景・空気・匂いはすべて記憶している。スケッチした場所はまだ全然観光化しては居なかったが、妻籠宿だけは「馬籠宿・妻籠宿」として再現整備された事がマスコミで取り上げられたため、多少観光客で混雑していた。しかし今と違って殆どが筆者のような若者中心だった。考えてみれば、昔も今も我々団塊世代ほど国内を旅行しまくっている人種は居ないのではないだろうか?

中仙道・奈良井宿・妻籠あたりのスケッチ

しかし今どきの観光ブームとはレベルが違うし、高速道路網がまだ発展していなかったので、車移動の観光客も少なかった。むしろ、大阪万博直後には国鉄の「ディスカバー・ジャパン」のブームで鉄道による旅客が激増した。一方で北海道をリュックを背負って旅する「カニ族」もこの頃激増している。このカニ族はそれぞれ通う大学が学生運動で封鎖中なので、リュックを背負って広い北海道を伸び伸び旅をしようと言う事から始まったのだと言われているが定かではない。これは北海道にユースホステルが100箇所以上あった事、ワイド周遊券で20日間という有効期限が長い周遊券があった事、学割が効いた事、上野発東北・北海道行きの夜行急行列車が多かった事などの好条件が重なったためと思われる。
 左は松本の丸茂旅館の喫茶店、珈琲カップが浮いているが、絵が下手で言い訳なのか当時流行った超能力を意図的に演出したのか、絵の裏に「超能力」でカップを浮かせたとの記述があった。左は高山の造り酒屋。    
        
 最終的に卒業するまでの間、普通の美術科学生の5分の1も絵を描いていないだろうが、写真は数百倍撮影している。特に油が乾くまで待たねば成らない「油絵」は苦手だった。悪く言えば気が短い性格、集中力が持続する期間が短いからだろうか?良く言えば物凄い集中力、インスピレーションが強い性格だからだろうか、短期間で「表現」できる手法での作品にしか向いていなかった。その究極が気が付いてみれば写真だったのだろうと今でも思っている。

したがって、スケッチ、水彩画が数少ない生絵の好んだ手法で、油や彫塑・彫刻はまったく習得しようとしなかったのが筆者の4年間だった。前にも書いたが、酷い時など絵画室でモチーフを真ん中において30以上も並んだ油絵の中から、前の日に自分が描いていた絵がどれだか判らなくなってしまった事が有った。各人それそれ画架(=イーゼル)に自分の絵を置いたまま帰宅するのだが、翌朝自分の絵を探してもどの絵だったか判らないのだ。つまり、その日モチーフを視たインスピレーション・感じが翌日まで持続せず、翌日はまた翌日のまったく異なった新しいインスピレーションになってしまうのだ。これは自分ではどうしようもなかった。

ましてや、教授が指導の意味で筆者が描いた絵の上から筆を加えた場合など、絶対にその油絵を描き続ける気になどならなかった。教授のイメージと自分のイメージが同じ訳ないという強い思いから来るものだろう、嫌な教え子だったに違いない。

1973年卒業制作展出展作品、欲しいと言われ全部人に贈呈した。

 絵画ばかりでなく彫塑・彫刻なども一様に学ばねば成らないのが教員養成課程の教育学部の宿命だった。しかし彫塑・彫刻に関しても全然興味が無かった。彫塑・彫刻の教授は安田正三郎氏といって非常におしゃれな教授だった。裕福な環境らしく、いつもスカイブルーのワーゲン・カルマンギアの車に乗って学校へ来ていた。「君ぃ、僕はいつも車の色に合わせてファッションの色も合わせているんだよ!」が口癖で、電車で通い南太田の駅から長い坂を学生と一緒に上ってくる他の教授たちとは一線を画していた。
  何年生かの夏休みの課題を、後に筆者とまったく同じく横浜国大の美術科に入学する4歳年下の弟が作った彫塑作品を出したら、一発で「これ、君が作ったんじゃないだろう?」と言われてしまった。未だになぜ判ったか謎だ。第一、弟はまだ横浜国大に入学していなかったのに・・・。
 しかしこの安田先生のおかげで、普通の人が逆立ちをしても味わえない貴重な経験をさせてもらえた。詳細はまだ後で。

 さて、話は少し前後するが、鳴り物入りで開催され6千万人以上の入場者で大成功に終わった大阪万博の年1970年、日本文化を大きく変える事になる2つのモノがスタートした。一つは平凡出版(現マガジンハウス)から創刊された「雑誌アンアン」。フランスのELLEというファッション文化雑誌の日本版でパンダがトレードマークだった。これは当初の専属モデル立川ユリが目の周りを黒くする化粧をしていたため・・・ではなく、当時人気沸騰中だったモスクワ動物園の珍獣ジャイアントパンダ・アンアンをマスコットにしたものだった。この表紙に必ず出るマスコットの絵は大橋歩が描いた。
決して化粧のイメージがパンダだった・・・・訳ではない。専属モデル立川ユリ。

日中友好の証として中国から日本へ贈られたジャイアントパンダ(=大熊猫)はその2年後1972年10月になる。
1978年VAN倒産時に廃棄物の中から保存しておいたアンアン創刊号 
 
この雑誌アンアンは月二回発行という変則発行の雑誌で、雑誌メディアに新しいジャンルを吹き込んだユニークな出版物だった。女子大生、オフィスレディに圧倒的な人気を誇り、最盛期には60万部以上の売り上げを誇った。

当然我々もこの雑誌創刊初期に載った「松本界隈」にスケッチ旅行に行っている。木曽屋で田楽を食し、デリーでカレーライスを食し、チキリヤ工芸展で工芸品を物色した。いわゆるその後、ヤナギの下の土壌を狙った集英社のノンノの読者層を巻き込んで、アンノン族といわれた世代の謂わば走りだった。

飛騨高山にも2度ほど行った。電柱を撤去し昔の風情を演出した最初の場所らしい。

当時サントリーのCMで夜、外人が「スミマセ~ン」と言って暖簾を上げたあの宿だ。

その外人の真似をして皮のトランクでスケッチ旅行した。筆者はノリやすい性格だった。 


 これに、前々回の「団塊世代のヤマセミ狂い外伝」にも掲載した「ディスカバー・ジャパン」が加わって日本の若者たちの国内旅行活性化がブームを迎えるのだった。