2014年9月20日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #68.」 横浜国大サッカー部・アルバイト奮戦記!

 横浜国大サッカー部は神奈川県の国体代表権を取るなどして、国公立大学としてはわりに強いほうだった。ヨコハマといえば幕末・明治維新の頃から世界に名の知れた貿易港だったためか、海外の商人・軍人・外交官が多数居留しており、フットボールチームも沢山あった。我がサッカー部がこれら外人達のチームと試合をしたのも数多くあるが、試合を申し込まれて印象のある戦いが2回程ある。ひとつは山手に本拠地を持つYC&AC(=Yokohama Country & Athletic Clubという英国をベースにした本格的なスポーツクラブとの試合。
 もうひとつが、横浜ミッション・シーメンズクラブ(=現The Mission to Seafarersという世界中を航海する各国船員たちの福利厚生施設で、やはり英国の組織がベースだった。
 これらから試合の申し込みが来たのが1971年頃だったと思う。
YC&AC https://ycac.jp/wp/historyjp/   YC&ACホームページから

昔のYC&AC YC&ACホームページから

 YC&ACはフランスのプロリーグの現役の選手もいて、非常に強かった。山手に大きな立派な芝生のグランドを保有していて、其処で行った試合だったが確か1:2で負けたと思う。なんとこのYC&ACは横浜国大入学試験会場、横浜光陵高校のほんの数百メートル先に在った。その試合後クラブハウスでペナントの交換を行い、大きなヤカンに入ったミルクティーでティーパーティが行われたことを覚えている。この経験が翌年1972年春に英国ボーンマスBournemouth(南部イングランド)にホームステイで40日間短期留学旅行する事に繋がる。

 そのボーンマスの陸軍サッカーチームと筆者が通った語学学校の学生チーム(世界各国からの学生混成チーム)で試合を行い、筆者が3点入れてハットトリックで勝利した際も、1年前のYC&ACでのティーパーティとまったく同じだったので驚いたのを覚えている。英国という国の伝統・習慣のすばらしさを、この時強く感じたのだった。
サッカーの試合後はティーパーティがお約束だった。

 一方、ミッション・シーメンズクラブとの試合は前半1:0でかろうじて勝っていたが、後半相手がバテてしまい最終的には11対1で勝利した。この試合で筆者は7点を入れ生涯での一試合最高得点記録になった。自分で点を沢山入れてという意味でも非常に印象深い2試合だった。

 こうしてサッカー部での実績を積んだのだが、その歴代サッカー部が毎年アルバイトを送り込んでいる酒屋さんが横浜西久保商店街に在った。徳島屋という名の大店で、店売り・配達・店頭飲酒提供の3種類の酒屋免許資格を保有する老舗だった。横浜国大サッカー部は伝統的にここのお店から毎年アルバイトを要請され送り込んでいたのだった。まじめな先輩が多く、お店のお金を持ち逃げするなどという事件は一度も起こさなかったのだろう。1971年の春、筆者とゴールキーパーの武井君にそのバイトの口が回ってきた。その夏のお中元の時期の繁忙期からが仕事だった。

 この酒屋でのアルバイトでは色々な事を学んだ。それらが何かというと、いわゆる商店の若旦那たちの価値観・常識、日常の楽しみ、ファッションだった。具体的にいえば恐ろしく高額な現金賭けマージャン、競馬、トルコ風呂のお姉さんたちの日常生活、化粧品会社の独身女子社員たちの危ない生活、横須賀マンボズボン、吉田町裏の川沿いの中古衣料屋、伊勢崎町界隈のVANショップ、年の瀬の売掛金回収作業だった。

 もちろん酒屋での基本的作業、一升箱(一升瓶10本入りの木箱)の担ぎ方、まだビンの時代のコカコーラ30本入り木箱2つを両手に持つ持ち方。日本酒の銘柄暗記、お中元・歳暮の箱物の包装の仕方。藍染の前掛けを半分に切って二つのポケットを造り、片方に現金つり銭を、もう片方に伝票を・・・。2ヶ月もたてば横国大サッカー部員のアルバイト二人は西久保商店街で一人前の配達人になっていた。

 生まれつきお酒は一滴も飲めないのに、お酒の銘柄とラベルだけはあっという間に覚えた。日本盛、松竹梅、剣菱、富貴、白鹿、白雪、黄桜、富久娘、富翁、澤之鶴、白鶴、加茂鶴、大関、月桂冠などで、越の寒梅、雪中梅、八海山、出羽桜など越後・東北の酒は置いていなかった。西久保界隈の横浜市民の好みが決まっていたのかもしれない。

 此処で学んだのは、「酒屋で潰れた所はまずない」という事だった。どういう事かというと、景気が良い時には高い酒と高いつまみが売れ、景気が悪いときには安い酒が量多く売れるというのだ。どう転んでも人間お酒に逃げるので、酒屋は潰れないという。
酒屋の倉庫、ストックルーム。昔は木枠の一升箱を横にして積んであった。
 
 この酒屋に勤めている頃、配達の軽トラックの助手席に乗って毎朝聴いていた曲がWe've only just begun(日本名・愛のプレリュード)という曲。
 1970年に出てきていたカーペンターズでRainy days and Mondays Superstar が大ヒット中だった。
 高校時代まで盛んに全米トップ100をチェックしていた筆者も、大学に通った4年間は音楽など聞いている暇はほとんどなかった。サッカーの練習とアルバイトと東京三鷹と横浜の往復4時間で毎日がほとんど潰れていた。

 考えてみれば、三鷹の自宅から横浜南太田の清水丘キャンパスまで、中央線、東海道線もしくは横須賀線、京浜急行を乗り継いで片道2時間掛かる通学だった。往復で4時間掛かるわけだ。これを週で換算すれば6日間で24時間。つまり一週間のうち実質丸1日分の時間は通学に費やしていたわけで、年間約50日、4年間ではなんと200日は通学の電車の中って訳。時間にケチになるのは当たり前だ。今のような無駄が嫌いな爺さんになった原点はこの時にあった。

 したがって、こういう環境下ではバイトやサッカーの練習から戻って寝る前の1時間、FM東海(=今の東京FM?)で城達也のジェットストリームを聴くのが関の山だった。この頃の音楽といえば、今のように携帯端末スマホ・iPodなど無いから自分で作った真空管アンプでJBLD130を鳴らすのが唯一の音楽との接点だった。
 
 おのずからビートルズ系英国ロック系から、マントバーニーやビリーヴォーンなどのオーケストラ系イージーリスニングに移行していった。そんな中きれいな女性ボーカルのカーペンターズは、酒屋の配達とは少し相容れない雰囲気ではあったが、西久保商店街に街頭スピーカーから流れる美空ひばりや、可愛い子ちゃんアイドルの曲よりは自分に合っていた。

 この頃世の中は成田空港反対運動の闘争がマスコミを賑わしていた。そんなある日、西久保商店街が大騒ぎになる事件が起きた。
 1971年9月16日成田闘争鎮圧に召集され現地で部署に着任していた神奈川県警の若い警察官が、反対派の集団襲撃リンチで3名撲殺されたのだった。

 そのうち若い1人だか2人だかが徳島屋酒店のすぐ裏のアパートの住人だったため、近隣の人々が大騒ぎになった。すでに全共闘の大学闘争は全国的には終了していたが、各セクトの残党がまだ立て看板を立てアジっていた頃だった。

 しかしこの件が有ってから、西久保商店界隈では相鉄線西横浜駅前でアジビラを配るなどしていた左翼学生を、街の若手が取り囲み袋叩きにする事件が時々起きた。「地元意識、地元の団結力」の強さを知ったのもこの事以来だった。
成田で警官3名殉職 報道時の新聞 Google画像

 この徳島屋は本名を漆原といって由緒ある商家だったそうだ。ご両親の元、ヨッチャンという筆者と同じ団塊世代の若旦那とその2歳下の妹、4歳下の弟の5人家族で、まったく我が家と同じ構成だった。

 配達はまだ車の免許を持っていない筆者と徳島屋のお父さんが組んで行った。方向感覚に優れ、いったん通った道は忘れないという性格が幸いして、配達の手順・道順を配達伝票に書くのはいつも筆者の役目だった。

 横浜は丘が多く、なおかつ丘の上に建てた家まで各家が勝手に手造りで階段を造るものだから、でたらめなものが多かった。段差は不ぞろい、ステップは後ろ下がりだったりして、危ないことこの上なかった。

 雪が降った日など滑ってしまい、どうしようもなかった。したがって年老いたお父さんには、この階段を上らせる訳に行かず車で待っていてもらい、崖を駆け上がるのはいつも筆者の役目だった。重たい配達品を持って不ぞろいの階段を駆け上がるのは、意外に良い鍛錬となったようで、それが理由なのか否か65歳の今に至るまで腰痛は一切ない。

 この酒屋では、年の暮れの配達と集金作業が非常に記憶に残っている。各家庭に年越し商品を配達しながら売掛金を集金しつつ、NHK紅白歌合戦の贔屓の歌手を見せてもらうのだ。

 その頃贔屓は南沙織だったので、紅白出番のときには配達先の玄関先から覗かせてもらった。二度ほど見せてもらったが、どの家でも「国大サッカー部のお兄さん」と、顔見知りになっていたので歓迎された。

 中には年越しそばを是非食えと上がって行くように勧められたが「業務中ですので・・」と涙を呑んで断って先を急いだ。

 年末年の瀬の忙しさはさほどでも無かったが、お中元の暑い時期は大変だった。昼食も徳島屋の茶の間に上がって食べる時間が無いので、藍染前掛けも外さず立ったまま店のすぐ裏でご飯をかき込むことが多かった。

 酷い時など茶碗のご飯に三ツ矢サイダーをシュワーッと掛けて食べたりもした。そのときはおいしいと思ったのだが、後年やってみたらとても食べられたしろ物ではなかった。何でそのときおいしく感じたのか未だに判らない。

 この配達中びっくりすることがあった。いつものように筆者が黄色い木枠のコーラを2ケース肩に担いでで立ち上がろうとした途端、「バン!」と大きな音と共に道路にひっくり返ってしまった。皆が驚いて駆け寄って来た。いったい何が起きたのかと思ったら、Gパンの縫い目がひざから下全部裂けてしまっていた。筆者は小さい時から父親のDNAでふくらはぎが恐ろしいほど太く、エラが張っているのだ。サッカーで鍛えた足は余計それが太くなっていたのだろう。細身のジーンズの縫い目が裂けてしまうなど考えもしなかった。裂けた途端バランスが狂って道路にひっくり返ったのだった。

 これ以来細身のブルージーンズを履かなくなったのは当然だった。だから今でもブルージーンズは少し太めのバナナリパブリックの物一本しか持っていない。