2014年8月31日日曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #63.」 封鎖中の横浜国立大学で勝手に自主授業を始めた。

 せっかく大学に入ったものの封鎖中の大学には行けず自宅で悶々としていた新入生たちは「とりあえず何かしなきゃ」と思っていたらしく、自主授業の計画は電話連絡網で広まって、中学校過程の7名+小学校課程の23名計30名のうち、常時半数以上が登校してくる事になった。今のように携帯電話があればもっと集まったろう、ちょっと残念だ。
 基本的にはアウシュビッツ(=プレハブ教育棟)に午前中に集まって、皆で出来る自主授業や討論会を行い、午後は自由解散。スケッチをする人は大学敷地の裏の荒地や横浜の本牧の方向の丘を描いたりした。時には鎌倉まで行って町並みや寺を描いたり海を描いたりした。人生でこの時期ほど絵を描いたときは無いと思う。
絵画室では皆が交代でモデルになって素描・デッサンなどを行った。

やはり頭脳明晰な女子が多く、口ではまず適わなかった。
 
 教室はプレハブだし床は軋むし、とても大学=キャンパスといった学園の雰囲気は無く、移転までの仮住まいという感じだった。プレハブの周囲は背丈まで生えた雑草・ススキの野原でどちらかと言うと未開拓の原野と言ったほうが正しい風景だった。卒業後過激派が内ゲバの時代に入った時、仲間に撲殺された死体が1週間もこの敷地内で発見されなかった程のヤバイ場所らしかった。結局4年間このままで終了し卒業してしまった。

だから筆者は未だに慶応義塾や青山学院のような学園キャンパス然とした大学の前を通ると羨ましいと思う。その後21世紀になった現在、早稲田大学の招聘研究員として研究活動はしているものの、出入りしているのはあの蛍雪時代という雑誌の表紙に何度も登場した大隈講堂から相当離れた理工学部キャンパスだ。此処のキャンパスの研究室などは有害電波を遮断するためなのだろうか全体を銀色に塗装されていたりして、まるでどこかの工場と言った佇まいだ。
残念ながら雑誌に出てくるようなオシャレな学園の雰囲気は全然感じられない。数年前理工学部の敷地の真下に地下鉄副都心線・西早稲田の駅が出来、明治通り側にタリーズ・カフェが出来たため、多少「大学キャンパス」のようには成って来た。しかし自分はきっとそういう華やかなキャンパスには縁の無い人生なのだろうと諦めている。
今の早稲田大学・理工学部西大久保キャンパス、この真下に地下鉄副都心線の駅が! 
 
かれこれ45年近く自分のお宝箱(通称タイムカプセル)にずーっと入っていた当時の自主授業日誌を取り出して読んでみた。これは自主授業をしながら参加者が自由に書き込んだもので、開始直後の夢と希望にあふれていた時点の書き込みから、封鎖がいつまで続くのか不安が大きくなっていく様が良く見て取れる。当時の大学生たちのリアルタイムの本音が書かれていて、45年ぶりに陽の目を見た貴重な歴史的資料だ。中にはなんと、あの人気キャラクター「しかし」の描きかた等を自分で書いているではないか!
45年ぶりにじっくりと読んでみた自主授業日誌、実行力の賜物。
 
 当時の自主授業は担当責任者が割り振られていて、結構まじめにやっているようだ。自宅にあった祖母から譲り受けた本物の浮世絵(明治時代に販売されたもの)を持ちだして散々学んだ。東洲斎写楽や鈴木春信、喜多川歌麿などの歴史や雲母(きらら)摺りなどの技法を知った。ロートレックの絵やブラック、ユトリロの絵と浮世絵を並べて、どの部分に影響を感ずるかなどいっぱしの評論家気取りで討論したのを覚えている。これはその後大学でも学ぶ事は無く、未だに知識として脳に残っている。
我が家に50点ほど残っている本刷りの浮世絵、明治時代の定期配本物らしい。

雲母摺り(きらら摺り)は光を当てるとこのように光るが鈍い光だ。

 一方で当時は漫画の全盛期が始まる頃で、アニメと言う言葉では定着はしていなかったと思う。まだ池田理代子の「ベルサイユのばら」も週刊マーガレットに連載される前で、今の漫画家・アニメ作家がしのぎを削って勉強していた頃なのだろう。この自主日誌も漫画と言うか挿絵と言うか、さすが美術系のメンバーの記録は文字より絵の方が多い気がする。それでいいのだ。
日誌とはいえ、字よりも絵で表現・記録するものが多かった。落書き帳に近いかも。
 
60歳を超えて、最近の大学生たちが非常に幼く見えるのだが、この自主ノートで自分たちの同じ頃もまったく変わらない事を再発見した。只し、自分たちでゼロから物を作り出す、事を始めるバイタリティはまだ今よりは豊富に在った様な気もするがこれは贔屓目だろう。

1969年~1972年にかけてクラスメート数名で泊りがけのスケッチ旅行したのも、この自主授業に端を発している。紅葉時期の那須高原、伊豆石廊崎付近箕掛け大瀬のキャンプ場でキャンプ、北陸金沢⇒能登輪島⇒高山旅行 松本⇒信濃川上⇒清里 など。
紅葉まっさかりの那須高原へのスケッチ旅行、何故かカラー写真をモノクロで焼いたようだ。

数名グループでのスケッチ旅行が多かった。学校に戻って作品を並べて報告会を開いた。

まだ関東エリアでも古い客車のローカル鉄道が残っていて被写体には困らなかった。

ちょうどこの頃は国鉄のディスカバー・ジャパンが始まる頃で国内旅行への人気が高まっていた。急行の自由席が乗り放題の格安の国鉄の周遊券で、北陸・能登、東北地方など、ミニ周遊券で京阪神へ幾度も出かけた。スケッチ旅行が主眼だが筆者は撮影をも主眼においていた。当然学割は最大限有効活用した。
学割は年間に使える枚数が決まっていたような気もする。

周遊券、ミニ周遊券には散々お世話になった。

当時の交通費は今の感覚から言ってもそう高くは感じなかった。