2014年8月23日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #60.」 二度目の大学入試はもうドタバタ!その1.

 国立大学願書受付期限の3週間前の入試中止決定!受験生たちにとってこれ以上のショックは無かった。一心不乱に東大を一途に目指して来た、余裕の無い受験生たちは大変可哀相だった。これが原因でグレたり、精神に異常をきたしたりする者が随分出たという。ヘルメットをかぶって安田講堂に閉じこもった者達、それを遠巻きにして応援した者達、東大関係者、文部省関係者は一生恨まれることだろう。

 この東大入試中止が起きたおかげで、東大合格レベルの受験生が他の国公立大学に流れ、そのシワ寄せを食ったのが、その他の国公立大学の合格ラインぎりぎりの受験生たちだ。志望校のランクを落としたり、もう1年の浪人を覚悟したりするなど連鎖反応が起き、悲喜こもごものドラマが生まれた。

 何を隠そう、この筆者もあわててショックから立ち直り、対策を練らなかればならなかった。で、決めた対応策というのが、今思うとまったく支離滅裂の方向だった。東大と同時に入試が中止になってしまった東京教育大学のキャンパスは、そのほとんどの学部が茗荷谷の大塚キャンパス(地下鉄丸の内線茗荷谷駅)に在ったのだが、唯一体育学部だけが幡ヶ谷に在って、何とこの体育学部だけが入試を行ったのだ。これに目をつけた筆者は、もう破れかぶれでこの学部に願書を出していた。体育の実技など何があるのか知らないが「何とかなるだろう?後は入ってから転部すれば良いのだ」という超楽天主義の一面が此処で芽を出したようだった。受験科目に数学が無いだけで十分戦えると思った浅はかさは意外な方向へ目を出した。
地下鉄丸の内線茗荷谷駅前に在った東京教育大学大塚キャンパス。今は公園。

 筆記試験の内容は芸術学部も体育学部も大差ないと思う。国語、英語、地理、地学といった4教科で受験し、2日目の実技に入った時は空模様が雨だった。実技はフィールドと体育館で行われた。まずは80mハードル。実はハードルなど跳んだことは一度も無かったのだが、父親が大昔に京都大学に入る前の成蹊高校陸上部でインターハイ400m優勝していたのが幸いした。ハードルのコツは、すべてのハードルを軸足の左足で踏み切り、思いっきりお腹を出して前屈し腿で越え、右足のつま先を左手で触る感じ。ハードルの間は左右2歩づつ、計4歩で行く事!これだけで跳べる筈だ・・・といわれた。もちろんその当時はじめて跳ぶ人間へのアドバイスであり、今はもっと違う専門的な指導だろうと思う。一度だけ千駄ヶ谷にある東京都体育館のサブトラックで、ハードルを借りて1時間ほどやってみた。あとはぶっつけ本番で実際その通りにやってみたら、一つもハードルを倒さずに行けたには驚いた。思わずニヤついてしまったが、試験中ニヤついたのは筆者くらいかもしれない。
昔のハードルの跳び方は父に教わった通りだった。Googleフリー画像

甲州街道から少し入った所に体育学部の校舎が在った、今は渋谷区スポーツセンター。

 これが印象深すぎて他の試験内容は覚えていない。自分なりに好きだったハイジャンプもあったが、最後の5人には残ったと思う。雨が結構降っていたので滑って転ぶ奴も居たが、スパイクなどは使用禁止なので公平な試験内容だったと思う。体育館では基礎体力の検査というか、背筋だのいろいろな機械で測定された。垂直跳びでは自分の能力に自分自身で驚いた。それまで垂直跳びなど測定したことは只の一度も無かった。
 まず指に白い石灰をつけて壁に沿って手をまっすぐ上げ、壁に印を付ける。その後その場でジャンプして最大の高さで壁を叩くと跳んだ高さが判るという極めて原始的なものだった。試験官は3人も付いていて、不正が無いかどうかチェックしていた。結果89cmという数値になったが、試験官が「ん?オカシイ!もう一度っ!」と大きな声で怒鳴った。何がいけなかったのか判らぬまま、もう一度跳んだのだが、今度は90.5cmだった。 
垂直跳びは、まっすぐ上に跳んでその跳躍力を測るものだった。 Googleフリー画像

当時の全国平均値の一覧表
 要は垂直跳びの90cmはオリンピック・アスリート(当時の)跳躍力に匹敵するそうで「有り得ん!」という事らしかった。しかし広尾高校バレーボール部で3年間アタックやストップの練習に加え、うさぎ跳びなど散々特訓をしたので自然に跳躍力が発達したのだろう。奥沢中学時代練習もしないのに、いきなり走り高跳びで140cmを飛べたという父親のDNAのおかげだとも思う。
受験の1年前、蓼科の牧場でのスナップ。キャラバンシューズを履いてのジャンプ。

 結論から先に言うと、なんと合格してしまったのだ、東京教育大学体育学部に。しかし此処からが大変だった。当然志望は芸術学部の工芸工業デザイン専攻科だ。教育大にさえ入れればどこの学部でも良いという事ではない。平面・立体構成の高山正喜久教授の本を熟読して、その氏に師事しようと思っていたのだ。フィールドや体育館でトレパンとズックを穿いて、笛をピーピー吹くような自分の姿は到底想像できなかったし嫌だった。当然、当初の予定通り芸術学部への転部を申請しようと、入学手続きの際に教務課に行って相談した。
 
教務課の回答は絶望的なものだった。「今年、茗荷谷に在る大塚キャンパスの学部の入試は中止になった。したがって向こうの学部には学年自体が存在し無い! 学年が無いということは授業も何も無い。もしどうしても貴方を本年度芸術学部に転部させるとなると、たった貴方1名のために学年を造り、カリキュラムを作成しなければならない。そうなると20名以上の教授・講師の授業ローテーションを造る事になり、税金でいうと1億円以上の費用が掛かる事になる。到底文部省は許さないので君に1年留年してもらい、来年度美術の実技を受けて芸術学部の教授陣がOKすれば転部可能だが・・・。」という事だった。

 教務課ではこれ以上粘らなかった。すでに同い年の同級生から事実上2年遅れているのに、更に1年も遅れてたまるか!さっさと旺文社の合格レベル一覧表を見て、国立二期校のリストを猛スピードで調べたのだった。決定までの猶予は3日も無かったと記憶している。数学が無くて美術の実技がある学部は、教育学部の教員養成学科がほとんどだった。茨城大学、宇都宮大学、信州大学、横浜市立大学、山梨大学、それに横浜国立大学だった。松本の信州大学以外はどれも県庁所在地にあり、当時は特急が必ず長い時間停車して充分駅弁を買える駅だったので国立大学二期校は別名「駅弁大学」とも言われた。
当時の駅版の折り掛け。自分で食べた駅弁の紙は何故か取ってあった。デザインのサンプルにでもしたのだろうか?30枚以上現存する。しかし¥100円~200円という値段は凄い! 
 
実は此処で結構迷った。信州大学へ行って北アルプスを眺めながら大学時代を送ろうか、山梨大学へ入って甲府盆地で桃やブドウのフルーツに囲まれて暮らそうか?どこも似たり寄ったりの大学だと思った。ただし、横浜国大だけはちょっと違っていた。北九州の小学校で大半を過ごした筆者には、当時、東京とは少し違う北九州での国立大学人気ステータス・ベスト5、東大、東京教育大、横浜国大、京大、東工大、の事が頭に浮かんだ。重工業地帯の北九州では、小学生及びそのP・T・Aの将来の希望職種のトップは八幡製鉄(当時)、住友金属、などの重工業の会社の重役になること、あるいはその奥方に成る事だった。親たちが勤めている重工業関連の会社以外の職業に関する知識が無かったのだ。2番目人気は大学の教授だった。だから弁護士や銀行マン、行政の官僚、デザイン関係、マスコミ関係といった職業自体をあまり知らなかった。したがって筆者の頭の中でも、この横浜国立大学という響きは少し他の大学とはレベルが違っていた。
出来た当時の横浜国立大学清水丘キャンパス1号館 Googleフリー画像 

 それでも、まだ珍しく迷っていた。しかし、ちょうどそこへテレビから大ヒット中の曲が流れてきた。ちょっと鼻に掛かった軽い調子で歌う「いしだあゆみ」の曲だった。「♪街の灯りが とてもきれいね、ヨコハマ ブルーライト・ヨコォ~ハマァ♪」 これで横浜国立大学受験に心は決まった。
夜明けのスキャットとこのレコードだけ現存している。

 神のお告げのような話だが、これが事実。NHKテレビ「私の秘密」の冒頭、「事実は小説より奇なり、と申しまして~」といっていたあの高橋圭三アナの名台詞が思い出される。まったく人生何が後押しをしてくれるか判らない。

1968年12月~1969年11月までのヒット曲ランキング 今でも有名なヒット曲が多い。

1 由紀さおり:「夜明けのスキャット」
2 森進一:「港町ブルース」
3 いしだあゆみ:「ブルー・ライト・ヨコハマ」
4 ピンキーとキラーズ:「恋の季節」
5 皆川おさむ:「黒ネコのタンゴ」
6 森山良子:「禁じられた恋」
7 青江三奈:「池袋の夜」
8 内山田洋とクール・ファイブ:「長崎は今日も雨だった」
9 カルメン・マキ:「時には母のない子のように」
10 青江三奈:「長崎ブルース」
11 ザ・キング・トーンズ:「グッド・ナイト・ベイビー」
12 はしだのりひことシューベルツ:「風」