2014年8月16日土曜日

「団塊世代のヤマセミ狂い外伝 #58.」 美術の専門学校は自由度100%。

  今まであまり乗った事が無かった赤い地下鉄丸ノ内線。荻窪から2つ目の新高円寺が下車駅。其処から住宅街を延々と南へ下り左に曲がるとそこが阿佐ヶ谷美術学園だった。今ほど五日市街道が広くない時代なので、五日市街道をどこで越えたかの記憶は定かでは無い。ちょうど少年マガジンでちばてつやが腕白坊主の石田国松を主人公にした「ハリスの疾風」の連載を終え、「あしたのジョー」の連載を始めた頃で、少年漫画を見なければ何処か落ち着かなかった時代だ。この漫画を読みたい為、新高円寺駅前の喫茶店と云うかスナックと云うか、中途半端ながら居心地の良い行きつけのお店で昼食を摂るのが「お約束」だった。
大人気だった少年マガジンと「ハリスの旋風」 googleフリー画像

引き続き連載された「ちばてちや」の「あしたのジョー」

 短かったが、この阿佐ヶ谷美術学園では直ぐに友達が出来た。クラスメートと云うよりバイト仲間もしくは青春仲間と言った方が早いかもしれない。学校で逢うと個人仕事のバイト以外はつるんで行動した覚えがある。別にたいした目的意識も無いのだが、日宣美の展覧会や、まだ当時は少なかった美術館廻りをした。ちょうどビートルズを先頭にしたブりティッシュ・サウンドの熱がやっと冷め掛かかっていたが、プロコルハルムの「青い影」が信じられないようなヒットに成り、街を歩いているとあちこちから聴こえてきた。秋葉原の電気街に行くと決まって良い音の見本として、クロード・チアリの「夜霧のしのび合い」が流れているのと同じだった。
プロコル・ハルムの「青い影」はバロック・クラシック・ベースで超人気だった。

この頃広告宣伝業界関連で一番読まれていた「アイディア」結構高かった。確か隔月刊だったような気がする。日宣美とも深い関係があったようだ。 google画像

 記憶に在るのは、受験科に仲の良かった米山君と云う非常に個性的な木炭画・鉛筆画のデッサンをするのが居て、御茶ノ水美術学院など他の美術学校などへも盛んに出かけて腕を上げていた。男女のミックス度は半々だったので、分け隔てなく仲が良かったが、お嬢さん生徒でテクニック・ゼロながら迫力のある「絵が前に出てくる」デッサンをする娘がいて、皆に人気があった。やはり受験科の所属で、割に背が高く、とにかくおしゃべりで、「おちゃら」という仇名が直ぐに付いた。その「おちゃら」がある日凄い美人の友達を連れてきた。だが気の毒なほど痩せていた。で、思わず私が「これじゃ、鶏ガラみたいじゃん?」と言ったら、直ぐに「ガラ」という仇名になった。今ならさしずめ「レディ・ガラ」だろうか?

 当時はテレビで「若者たち」という番組が流行っていて、苦労しながら生きていく5人兄弟が話題に成っていた。しかし阿佐ヶ谷美術学園のメンバーは、それぞれ実家が裕福だったのだろうか、暗さは全くなく「良い子達」の明るい毎日だった。後にすぐ傍にある美術の女子大に進む「おちゃら」が、先輩がいるからと誘い、皆でその女子寮に忍び込む事に成った。

 寮は4人部屋で2段ベッドが部屋の両脇に在り、その両袂にデスクが1台づつ計4個配されていた。忍び込んだのは夜の10時で消灯まで1時間しかなかった。声を出すとすぐに舎監や隣の部屋にバレルので、紙に文字や絵を描いて筆談が始まった。酒とたばこは寮自体厳禁なので持ち込まなかった。

 何を話したかほとんど覚えていなかったが、将来どうやって食っていくか等の話はした記憶がある。しかし半分は故郷に戻って嫁に行くだの、家を継ぐというのが多かったように思う。当時は女性の殆どは結婚するのが当たり前の時代だった。我が広尾高校卒業同期も、90%以上の女子は結婚している事実がこの事を証明していると思う。意外にまじめな話で終始したと思っている、筆者が寝込むまでは・・・、後は何があったか知らない。

 翌朝の女子寮からの脱出が大変だ、手に汗握る作戦の実行だった。まず、一番舎監に信用されている者が舎監に気分が悪い、大変だと訴える。付添いのもう一人が脱出の合図掛かり。これで舎監が気を取られている間に、抜き足差し足で堂々と女子寮の正面玄関から男子3名脱出成功したのだった。返す返すも画像記録が無いのが残念だ。

 当時は広告宣伝美術の頂点に公募による「日本宣伝美術展覧会」があって、美大生、美術専門学校生の登竜門であり、一つの目標に成っていた。我々も毎年の受賞者展を観に行き、ある意味その時代の傾向などを学ぶ数少ない機会だったが、1969年、武蔵野美術大学の学生・戸井十月(2013年没)らの「日宣美粉砕共闘」が1969年(昭和44年)8月、第19回日宣美展覧会の審査会に乱入し、翌年から中止に成ってしまった。したがって自分が観た1967年、68年の2回が最期のきちんとした日宣美展だった訳だ。更に何という縁だろうか?この戸井十月は広尾高校の同期(D組)であり、その後1990年頃リクルートのアルバイトマガジン、フロム・エー一緒に仕事をする事に成るのだ。
日宣美はとにかく商業美術界志望者には必須の登竜門だった。Google画像

武蔵野美術大学を中退した戸井十月は広尾高校15期の同期D組だった。1990年頃新橋のリクルートでアルバイトマガジン「フロム・エー」の編集長席でばったり出会い、その後しばらく一緒に仕事をした。 Google画像

 こうして世の中にLSDやマリファナ等ドラッグ・麻薬の副作用による超感覚をエネルギーとし、蛍光色を取り入れたサイケデリックの新しい文化・風俗が蔓延り始めるころ、70年安保闘争の勢いが徐々に頭を持ち上げて来ていた。ちょうどそのころアルバイトで商工美術というデパートの店内の模様替え、徹夜の飾りつけをやっていた会社に雇われたバイトが思わぬ体験を生む事に成る。
ジョン・レノンの有名なサイケデリック・ロールス・ロイス Google画像
Beatlesもサイケデリックになった、インドの文化・音楽に傾倒し始めた頃。

 忘れもしない1968年10月21日(月)、翌22日火曜日が定休日だった新宿小田急デパートのディスプレイ模様替えの仕事で、我々阿佐美のバイト6名は閉店後2時間ほどして午後8時南口側の通用門から館内に入ったのだった。反戦運動だの70年安保闘争だの全然関係ない我々美術系は、新宿小田急デパートの店中で人が居なくなったのを良いことに、マネキンの頭をサッカーのボール代わりに蹴って遊んで主任に怒鳴られたりしていたのだった。
新宿小田急デパート、最上部はレストランエリアで、1968年の夏デビュー当時のピンキーとキラーズがライブで「恋の季節」を歌っていたのを、ランチを食べながら観る事ができたのを覚えている。

 その日は何でも国際反戦デーだとかは聞いていたが、新左翼が何かをやらかそうとしている噂は聞いていたものの、せいぜい大がかりなデモ程度だろうと思っていた。それが夜11時を過ぎて真下に見える新宿駅のホーム辺りが何やら騒々しくなっているのに誰かが気が付いた。やたらストロボらしき閃光があちこちで光り、マスコミが取材報道している様は8階の北側の窓からよく見えた。 
 それからはもう蜂の巣をつついたように大騒ぎになった。徹夜のバイト作業なので外が幾ら騒がしくても、明日の昼過ぎまで帰れないのだからどうって事は無かった。しかし、午前0時を回って日付が22日(火)になった辺りで、フロアの舞台裏に在る店員控室のテレビが「騒乱罪適用・騒乱罪適用!」と叫んでいるのを聴いて、「何だ?その騒乱罪って?」と思った。フロアに居るものはデパートの主任だろうが、バイト側の6名も誰も聞いたことが無い言葉だった。
10.21当日の新宿駅構内の過激派 Google画像

10.21当日、騒乱罪適用で逃げ惑う新宿西口の一般人。 Google画像

2008年になって雑誌が特集した1968年の10.21新宿騒乱事件 Google画像

  さっきまでマネキンの頭を蹴って遊んでいた土井と工藤が「ちょっと見てくるべ!」と言って2階の搬入口に向かった。今と違って携帯電話など無い時代、それっきり彼らは翌朝に成っても戻ってこなかった。二日後の木曜日に成って阿佐ヶ谷美術に現れた二人は「搬入口から出て機動隊が沢山居る甲州街道に出た所で捕まって、あっという間にトラックに乗せられてしまった。」と恐怖の体験を2時間以上かけて話したのだった。その日の阿佐美は美人で有名だったデッサンの先生も、その先生に気が有るらしい男の先生も、一緒に学生たちの輪の中に入って一部始終を聴き入った。